レッドハンデッド
にいさま、と呼ぶことができなかったのは、あの日だけ。
冷酷にさえ見える青い瞳の奥に、優しさが詰まっていることを知っていたのに、その目から視線を外してしまった自分に、モクバはずっと、ずっと後悔を抱き続けてきた。
モクバ、と。疲労を浮かべた、深い淵のような兄の瞳が自分を気遣っていることなんて、わかりきったことだったのに。
優しくて、強くて。自分だけの、たった一人の兄を拒絶してしまったあの日。モクバは、目が腫れるまで泣き続け、そんな自分が嫌いで嫌いで、仕方がなかった。


しんしんと、雪が降り積もる様を延々と見続けていたことが、ある。
自分の身長よりも大きな窓に張り付いて、じい、と広大な庭に降り積もる雪を見詰めながら、義父と二人きりでいる兄を思った。
海馬の名を継ぐならば、これしきのことを為してもらわなければ。それが口癖だとばかりに、モクバは同じ言葉ばかりを義父から聞かされ続けた。お前の兄は天才だな、優秀だ。そう、聞くだけならば褒めているように聞こえるその言葉を、モクバは小さいながらも恐ろしいと思っていた。
義父が愉しげに笑う度に、優しげにモクバに接する度に恐ろしくて、恐ろしくて。兄に厳しく当たるのとは逆に、義父はモクバが戸惑う程に甘やかす素振りしか見せなかった。兄一人に負担がかかるのを見ていられなくて、何度も、何度も俺にも兄さまと同じ勉強を教えてくださいと、懇願しては、それと同じ数義父に頭を撫でられ、宥められた。
「お前は何もしなくていい」
モクバにとっての義父は、恐ろしい人ではあったが、兄のように憎しみだけの感情を抱く相手ではなかった。
あの頃。まだ、海馬の家に引き取られて間もない頃。毎晩のように兄を連れていく義父の様子にモクバを声を震わせながらも、小さな手をそっと伸ばした。何をしているのか、詳しいことはモクバにはわからなかったが、日に日にやつれていく兄の姿に恐怖心だけが募っていた。だから、モクバは自分も、と兄の背を大きな手で促す義父へと、手を伸ばしたのだ。
兄は目を見開き、「モクバ、」と鋭く名を呼び、今までに見た事の無いような、恐い顔でモクバを窘めた。そんな兄の様子に小さく震えるモクバの頭を、義父はいつものように優しく…丁寧に撫でた後に「お前は寝ていなさい」と微笑みを浮かべた後、珍しく感情を露にした兄に向かって厳しく叱咤したのだ。
モクバには、何もすることができなかった。することを、許されなかった。
兄を庇おうとすれば、義父はさらに兄に対しての仕打ちを酷くしていった。精彩を欠いていく兄の姿に、モクバは己を酷く呪った。
自分さえいなければ、兄は海馬の家に来る必要はなかった。
自分さえいなければ、兄は義父の言いなりにはならなかっただろう。
自分さえ、いなければ…。
縋れる人間など、広い屋敷の中、モクバにはたった一人しかいなかったけれど、一番縋ってはいけない相手であった。
恐い、と泣いて縋りたかった。昔のように、恐い夢を見たのだと云って泣いた自分を、大丈夫と宥めて、共に寝てくれる兄を求めた。きっと、兄は今でもモクバを受け入れてくれる。
背に受けた傷を決してモクバに悟られないように。睡眠不足のせいで常に頭痛に襲われていることも、気づかれないように。
そんな兄の優しさを知っていたからこそ、モクバは甘えることなどできはしなかった。
『お勉強』の時間は兄が歳を重ねる毎に増えていき、同じ家に住んでいてもモクバが兄と会う時間はどんどん少なくなっていった。
広い海馬の屋敷。義父も大抵は仕事で家にはおらず、一人の食事、一人の部屋。塞ぐことの多くなったモクバの元には義父が手配したのか、たくさんのテレビゲームや漫画が毎日のように届いた。あの義父なりに、気遣ってくれているのだろうかと思う心と、どうして自分だけと、表情を無くしてしまった兄を思って泣き伏した。
何をするにしても、まだモクバは幼くて。義父のいない夜に、兄の傍にいることしかできなかった。
真っ青な顔をした兄が、自分に笑いかけてくれる度に悲しくて仕方がなかった。

そして、あの日。
学校から帰ってきた自分を出迎えた兄を見て、モクバは自分の弱さと愚かしさを知った。
「モクバ」
優しく語りかけてくるその声に、柔らかな微笑みに…深い、底の見えない瞳に。
モクバは兄の姿に、義父の姿を見てしまった。そして気がついたのだ。
兄がもう、自分を置いて遠くに己の居場所を定めてしまったのだ、と。きっと、義父はもう二度とこの家に帰ってくることは無いのだろう。もう二度と、兄を傷つけることも無く…もう二度と、モクバの頭を撫ではしないのだ。
悲しみに耐え切れなかった。恐れを、受け入れることができなかった。
そして、モクバは目を逸らしてしまったのだ。
義父と同じ、暗い淵の色を浮かべた兄の目から、モクバは逃げた。

…兄の優しさなど、わかっていた筈なのに。






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