過去の思い出今の恋
未だに目に残るあいつの顔は、これ以上ないほどの笑顔だった。











「ウルフウッド」
騒々しい喧騒の中、自分の名を呼ぶ、よく知った声を聞き、ウルフウッドは机の上にある書類から目を離し、後ろを振り返った。斜め後ろに立っていたのは、白いジャケットを趣味悪く着こなす同僚のミッドバレイだった。
「・・・なんや、」
「そろそろお家へ帰る時刻を過ぎて1時間程になる。いつも帰りの時間厳守の貴君にしては少々辛くなっているんじゃないかと思ってね。どうだい、仕事の進み具合は。」
ウルフウッドは妙に芝居がかった喋りをするミッドバレイをどこかぼんやりと見詰めていた。そんなウルフウッドの様子に肩を落とし、盛大な溜息を吐いたミッドバレイは、根つめすぎるな、と一応は忠告をして、その場に背を向けた。
同僚の気遣いに心の奥では感謝しているものの、相変わらずウルフウッドは心ここにあらずという感だった。そんなウルフウッドを、同僚たちは気の毒そうな目を向け、声をかけるでもなく、同情の壁の向こうへ追いやっていた。同情を向けられるのは嫌いだが、声を掛けてきてくれないのには(一部例外を除くが)助かっていた。
今、喋りだしたら誰彼構わず傷つけてしまいそうだから。
今でもしっかりと眼に焼きついているのだ。
あいつが、自分を庇って銃弾に倒れた姿を。









幾分、夜が更けてきた頃、ヴァッシュは知人が経営する店に足を運んでいた。
兄の元仕事仲間だった彼は、長年の夢であった店を経営するにあたって、何かと兄に相談を持ちかけていた。
その時に初めて知り合い、彼の知識の豊富さや、静かな物腰に好感を持った。今では、兄よりも自分のほうがこうして彼の店へと足を運ぶ回数が増えている。マスターと呼ばれる彼は、僕が来ると軽く会釈をし、カウンター席に案内してくれる。
カウンターの一番奥の席。
仕事帰りによったり、休みの日に遊びに行ったり。マスターと話し込むこともあるけど、ただ黙ってその席に座ってお酒を飲む日もある。僕がお酒に強くないということもマスターは知っているので、途中から紅茶とか、ココアとかを出してくれる。その気遣いが、ヴァッシュはとても好きだった。









いつものように、一番奥の席に座って、ココアを飲む。こんな寒い日にはココアが一番だなあ、なんて思いながら過ごしていると、一人の客が入店してきた。ヴァッシュの鼓動が跳ね上がる。いつも、黒っぽい服を着ていて、サングラスで顔を隠して。
黒い髪、大きな身体、ゆったりとした歩き方。鷲鼻で、薄い唇で、少し肌が黒くて。
一度だけ、サングラスを外した時に見た、鋭く、深い闇のような眼。ヴァッシュが、最近気になっている人物だ。
名前も知らないし、喋った事もない。
ただ、いつもヴァッシュが座っている席から二つ離れた所に座って、黙って酒を飲み続けるだけ。ちびちびとお酒を飲むヴァッシュに比べて、その男は一気に酒を煽る。その時に、押下するたびに動くの喉仏がヴァッシュは好きだった。
声を掛ける勇気はない。
何より、その男が近寄るな、と全身で語っているから。
ただ、席を二つ挟んで、座っているだけ。
それだけで、ヴァッシュはなんだか満たされたいた。









仕事帰りに寄る店は、酒という酒は全て揃えているようだ。
今まで耳にしただけで、ここいらではめったに手に入らないような酒や、知人があれほどまずい酒はない、と言っていたものまで、何でも揃っていた。ウルフウッドは、その店に何か無いものはないか、様々な酒を片っ端から注文してきた。しかし、今まで一度も店長が首を横に振ることはなかったのだ。気が付いたら、常連になっていた。
酒のレパートリーと、店に客があまり入っていないというのがウルフウッドのお気に入りだった。
そして、今日もいつものようにカウンターに座り酒を飲む。
出来れば一番奥の席に座りたいのだが、ウルフウッドが店にくると、いつもその席に座っている客がいるので、それは出来なかった。
金髪の優男風なやつがいつもその席を陣取っていた。マスターの知り合いらしく、時折談笑している姿を見る。無口のマスター珍しい、と、なんとなく記憶している。だから、いつもそいつから席二つほど離れて座るのだ。
この店で見ず知らずの人間と馴れ合う気はなかった。ここには、一人でいるのが好きなのだ。
いつものように、席に座り、酒を飲み、そして家へと帰る。それが日課なのだ。
しかし、その日は勝手が違った。











はじめて見た時、恐そうな人だと思った。
二回目には、大きい人だと思った。
三回目には、何をしている人だろうと思った。
四回目には、恋に落ちていた。
自分はそういう性癖ではなかったはずだ、と少しは悩んだ。
前に付き合っていたのは女性だけだし、男性にそんな思いを抱いたこともなかった。
だけど、もう自覚してしまった。
今更悩んでも仕方ない、とヴァッシュはすぐに開き直って、自分の思いを素直に受け止めていた。友人にそういう性癖な人もいたし、偏見があるわけでもなかったし、何度かそういう誘いも受けたことあったし。兄に、開き直りがはやいと、呆れられたこともあったが、それが自分なのだから仕方ない。
好きだと、自覚しても声をかけることはしなかった。
今は、見ているだけで充分だし、もし声をかけて、不信がられて、もう二度と会えなくなるのは嫌だった。
一時期、彼が店に来なくなった時があった。
どうしたんだろう、病気にでもなったのかな、事故にでもあったのかな、それともこの街からいなくなったのかな。不安な日々が続いて、彼がいるかも、と期待して店にいくより、また、いないんだろうな、と悲しい思いで店に行く事になっていたある日に、彼は再び店にきた。ヴァッシュは、素直に喜びを感じたが、同時に彼の変わりように驚きが隠せなかった。以前は、どこか尖った雰囲気の中に優しげなものが見えていた。
今は、尖った雰囲気が前にも増して濃くなっていた。
(だけど、)
ヴァッシュには、彼が悲しみに包まれているように見えた。
今の彼を見ていると、ヴァッシュまでも胸が痛くなる。
(何が、あったのだろう、)
知りたい、という思いは強かったが、声を掛ける勇気を、ヴァッシュはまだ持っていなかった。













店のドアを開け、寒い風を全身に受けて歩き出す。
昨年買った黒いコートは、既にボロボロだが、新しい物を買う気はまったく起きない。
(あいつが買ってくれたゆうだけなのにな)
いつまでも過去を引きずる自分に苦笑し、暗い夜道を進もうとしたその時。左の通りから突然人が飛び出してきて、ウルフウッドに体当たりをしてきた。ウルフウッドは文句を言おうとしたが、脇腹に激痛を感じ、それは無理に終った。
何事だ、と自分の身体を見下ろしてみれば、左の脇腹に深々と、ナイフが一本刺さっていた。ああ、刺されたのか、とぼんやりと考えているうちに、自分を刺した男は走り去ってしまった。大声をあげる事も叶わず、大通りへ歩く事もできず、ウルフウッドは壁に身体を預け、ずるずると、座り込んだ。

呼吸が荒い。

意識が朦朧としてきた。

(ワイ、死ぬんかな)

どこか、他人事のように思える。

(死んだら、アイツに会えるやろか、)

どこまでも未練たらたらの自分が、おかしく思えて、痛みを感じながらも笑い声を上げていた。
意識を保てなくなって、もう終わりか、と思ったその時、目の前に光が飛び込んできた。

闇夜の中に、光を放つ、金の髪。

白い、肌。

そして、驚きに見開かれた、その瞳の色。

(ああ・・・、ようやっと、あえたなあ、)

ウルフウッドは、もう死んでもいい、と思った。













あの男が店を出て、暫く経ってから、自分もやっと重い腰をあげる。
マスターに、じゃあね、と声を掛けて、席から離れようとした。
「あの男に声はかけないのか?」
一瞬、何のことを聞かれているのかわからなかったが、マスターが、つい先ほどまで彼が座っていた席を顎で指したので、ああ、と理解した。
「やっぱりわかっちゃったかー、」
「そりゃあ、あんなに全身で見てたらね」
マスターはグラスを拭きながら、呆れ顔で答えた。
そんなに自分はわかりやすいのか、と苦笑して、ナイブズには内緒にしといてね、と釘をさしておく。
「ブラコンな兄を持つと大変だな。言わないでおくから気をつけてお帰り」
はーい、と良い子の返事をして、店を出た。
寒い、と感じて、首を竦めると、視界に何かがひっかかった。店から少し離れた街頭の届かない場所に、誰かが蹲っているのが見えた。酔っ払いかな、と思って近づいてみる。具合が悪いのなら救急車でも呼ぼうと、ヴァッシュは思っていたのだ。こんな自分をみたら、兄はまた、お前はお人よし過ぎる、と怒るだろう。でも、やっぱり困っている人は助けたい。一歩一歩、近づくたびに、何かが違うと、ヴァッシュは気がつきはじめた。
何か、おかしい。
不安に駆られ、走って蹲っている人に近づく。
壁に寄りかかるように地べたに座っている人物は、ピクリとも動かない。急いで顔を覗き込んで、ヴァッシュは心底、驚いた。あの、男だ、ということと、男の顔色の青さに。どうしたんですか、と声を掛ける前に、ヴァッシュは彼の身体の異変に気が付いた。左の、脇腹に、ナイフが生えていることに。
悲鳴をあげそうになるのを、なんとか堪え、顔を上げてもう一度男の顔を見て、ヴァッシュは捕らえられた。顔色は死人のように青いのに、表情は例えようのない笑顔だった。まるで、愛しい者が目の前にいるかのような。
男は、ヴァッシュを優しげに見詰め、眼を閉じた。
硬直していたヴァッシュは、男が危険な状態だということを思い出し、急いで店へと走った。










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