8、消える
ちり、と微かな痺れにも似た痛みを感じ、キュウゾウは己の首を抑えた。
皆が寝静まった夜。一人、与えられた場所から離れ、いつの時代からそこにあったのが、巨木の根元、幹に寄りかかるように身体を休めていた。鎮守の森、そう、村人達が言っていた。
鬱蒼と葉が重なりあうこの森に、月明かりは僅かにしか漏れてこない。暗闇とはいい難いが、光り溢れる街にいたキュウゾウにとって、その暗さは己が闇から離れていた事を、改めて知らしめた。
戦場では、僅かな月明かりだけを頼りに行軍をした事もある。
その頃に比べて、遠くの暗闇が良く見えない状況にキュウゾウは眉を諌めた。まるで光りの洪水だ。初めて訪れた街で、そう驚きに目を張ったはずが、いつのまにか己の目が光りに慣れてしまっていたのか。
ざわり、風に煽られて木々が揺れる。目を閉じれば、感じるのは大気の濃さ。周囲を崖に囲まれた、自然の要塞だからか、外界の空気を感じない。どこか、異界めいた、村。足を踏み入れ、ざわりと背中を走った震えに、キュウゾウは歓喜した。この村に吹く風は、戦を運ぶ。直感、とでも言えばいいのか。ぞくりと未だに鳥肌をたてる項に手を当て、そっと、戦場の空気を思い起こす。上昇する熱と、冷えていく心。こうして、一人。死と隣り合わせの、あの感覚を思い起こす自分の顔を、あの男は美しいと言った。その純粋さを羨むが、呆れの方が大きいのは、俺がサムライではなくなったからかもしれんな。そう、自嘲した男の横顔は確かに凪いでいた。

不思議な、男だった。
戦場で笑みを浮かべる余裕を見せたかと思えば、戦から離れてからの男は触れば斬る、とばかりに切羽詰っていたようにキュウゾウには見えた。先を読んでいるようで、時折酷く愚かな事をする。ちり。既に癒えた筈の傷が痛む。カンベエに斬られた傷だ。うっすらと、跡だけが残っているだけの。
指で、跡を辿る。ぞくりとした感覚。もう一度、あの男と斬りあいたいと願い、この村へ来た。その前の一仕事も、キュウゾウが願ってもない戦であった。カンベエは、キュウゾウが真に欲していたものを与えてくれる。戦場の熱気を、狂気を、剣戟の感触を。この十年、戻りたいと恋い続けた戦場で、その感覚を早く味わいたい。しかし、昂揚している体とは裏腹に、ひたりひたりと寄せてくる冷気が心を冷ましていく。研ぎ澄まされていく神経に、ふと違和感を感じた。砂嵐と共に湧き起こる記憶は、キュウゾウの目の前に現れた男の存在で掻き消えた。見ずともわかる。カンベエだ。
「起きているか?」
「…何用か」
「いやなに、姿が見えぬでな…」
丸めていた身体を少しずつ伸ばしていく。思考の海へと落ちていると、身体を丸めるのが癖だと指摘したのはあの男。自分には珍しい事に、あの男を切ってから過去を振り返るばかりだ。それ程己に影響を与えていたのだろう。
白い砂防着が目の端に移り、身構える前に顎を取られ深く黒い瞳に射抜かれた。手袋越しの指の温度に瞼を伏せた。
「何を、想うておる?」
「戦を、」
「はて。儂には、そう見えん。…引き摺るは、あの男、か?」
引き摺る。それとは違う気もするが、そのような気もする。キュウゾウは、己の思う処がわからない。だから、ヒョーゴを斬った時の感情が何なのかを知りはしない。お主は人として、何かを何処かへ落としてきたのかもしれなんな。だからこその鬼人かと、またヒョーゴの言葉が浮かぶ。ああ、まただ。
「お主はまるで幼子のようだな」
「幼児と、言うか」
「まあ、そう怒るな。からかっておるのではない。不思議に思うておるのだ。戦の中を生き抜いてきたというに、その迷い…いや、だからこそ戦の後も生きてこれたのかもしれんな…」
カンベエの言葉は、相手に対してなのか、それとも己に対してなのかを判別するのが難しい。相手に問い掛けているようで、己に問い掛けているようでもある。不思議なのはお主の方だと内で思いながらも、顎を掴んだままの指から、顔を振り払って逃れる。立ったままのカンベエと視線を交わすには、見上げなければならないが、立つ気はなかった。不遜ともいえる態度を示しても目の前の相手は去るつもりはないらしい。ふ、と息を吐き出すと同時に、相手が動く。刀を持つ手に力が篭るが、キュウゾウに覆い被さるように膝をついたカンベエに動く気配がないと知り、力を抜いた。先程よりも縮まった距離でも臆せず視線を逸らそうとしないキュウゾウを見て、カンベエは口元だけで笑みを浮かべた。
「妬けるな」
「?」
「ヒョーゴ、と言ったか」
「…」
「死した後も、お主は隣に奴を見る」
「…死人に興味はない」
「ほお?では、何故今も奴を想う?」
闇よりも奥底の知れぬ瞳が、ゆうらりとキュウゾウを誘うように揺らめく。この瞳は見たことがある。ヒョーゴの黒く輝く瞳にも、この感情を見たことが。
執着。
言葉にすれば、一言で事足りる色。しかし、それは本人が死した後もキュウゾウを縛りつける想い。
「…執着…」
「あの男の、」
「否、俺のだ」
キュウゾウ自身の執着は、相手が死した後も変わる事は無い。キュウゾウは死なぬ限り、この感情が無くなる事はないだろう。微かな焔を瞳に宿し、静かに見つめてくるキュウゾウに、そこまで理解していて、なぜ己の心がわからぬのだと吐息と共に言葉が降りてきた。年月を刻んだ目元に指先で触れ、消してなるものかと、キュウゾウは笑んだ。
「この思いは俺のものだ。貴様にも…やらん」
頬に触れたカンベエの長い髪を掴み、噛み付くためにキュウゾウは顔を近づけていった。









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