4、透ける
水の落ちる音を聞き、少女は目を覚ます。
見慣れた天井は薄暗く、まだ夜が明けていない事を知った。こんな時間に自分が目を覚ますのは珍しい。いつもは陽が昇り己の姉が朝の支度をする音で起き出すというのに。隣を見れば、姉はまだ夢の中のようだ。静かに上下する布団を見てから、コマチはゆっくりと音を立てずに行動し始めた。

外に出てみれば涼しい、というよりも少し肌寒い風が小さな身体を包んだ。この村は、周りを水に囲まれているせいか、陽がくれると途端に気温が下がる。そうした温度の差が、神名の米を生むのだと、米好きの侍の言葉を思い出す。まだ空は暗い。あと少しすれば色を変えるだろう空を眺め、コマチは一人村の中を歩く。連日の夜遅くまでの作業で皆眠っているのか、村中には誰の姿も見えない。何人かが警戒に当たってはいるのだろうが、それはコマチの知らぬところ。珍しく、侍たちの姿も見えない。皆眠っているのか、それとも見張りだろうかと、仲の良い機械の侍の姿を思い出すが、あの侍は目立つという理由で見張り役には回されなかった事を思い出す。その時の、彼の憤りを思い出して、コマチは静かに笑った。
彼は、まるで滝を流れおちる水たちのように豪快だ。季節によって顔をかえる滝のように、あの侍も気分によって随分と様相を変える。コマチは小さな頃から滝を見に行くのが好きだった。だから、あの侍を見ているのはとても楽しい。きっと、この事をあの侍に言えば滝と同類にされた事を怒るかもしれない。

森の傍にくれば、かがり火が当たりを照らし、闇を消し去ろうとしていた。それでも深い森の全てを照らす事はできてはおらず、灯りの届かぬ闇の部位は酷く恐ろしくコマチの目に映った。一人で歩いていたコマチを見つけ、見張りをしていた村人が怒ったような顔で屋敷に戻れと囁いてきた。眠れないのだと言えば、横になっていれば朝になっていると返され、コマチは頬を膨らました。
なぜ、自分はこの村人のように見張りに立てないのだろうか。
自分だって、弓を引いたり、武器を作ったりしたいというのに。それを、侍達の大将である男に言えば、適材適所だと諭された。コマチには、コマチの仕事があるのだと。理解はしている。けれど、納得はしていない。コマチの身体で弓を引くことはできないし、武器作りはあまりに危険だ。出来ることと言ったら村の女達と飯の支度をするくらいだ。飯は大事なものだと、理解はしている。米を守る為の戦なのだから、それも立派な役目だとも、理解はしているのだが、侍達を見ていると、自分ももっと何かをしたいのだと思ってしまう。

さあ戻れとすげなくあしらわれ、大人しくもときた道を戻る振りをして違う場所から森へと足を踏み入れた。この村にコマチの知らない所はない。友達であるオカラと共に、隠れ家探しだと探険した成果もあるけれど、水分りの血が水の流れる場所、涌き出る場所をコマチに教えてくれるのだ。今回も、闇で見えない森を、水の気配を頼りに歩く。この先には大木があり、その裏にはオカラと共に作った小さな祠がある。目印にしようと、森のあちこちに点在している祠だ。苔が多く、何度も足を滑らせてはびしょ濡れになった。その度に姉に叱られはしたが、二人懲りずに祠を作り続けた。
二人だけの秘密の場所を造りたかったのもあったけれど、いつか野伏せりに村を焼かれた後でも、自分たちがいた事を、少しでも残したかったのかもしれない。だから、人には見つけにくい、森の木の裏とか、滝の崖とかに作った。

ほうほうと鳥の鳴き声が響く森の中を歩きながら、微かに感じる水の匂いを辿りにコマチは奥へ奥へと進んでいく。かさり、と葉が一枚目の前を舞う。そして唐突に飛び込んできた鮮やかな赤に驚き、コマチは尻餅をついてしまった。声を出さなかったのは、あまりにも驚いて喉が引き攣っていたからだ。冷たい地面の感触が手に伝わり、ようやく、目の前にいるのが自分たちが村に呼んだ侍の一人だと気づく。
「わあ、びっくりしたです、」
早鐘を打つ心臓が、まるで耳の横にあるようで、コマチは自分を落ち着かせる為に何度か深呼吸をした。ふわりと空気を孕んだ赤いコートの裾が踊っている。きっと、いつものようにこの侍は木の上にでもいたのだろう。あんなに高い木の上から、よく音も立てずに降りてこられるなと、改めてその凄さを知った。
「キュウの字、なんでここにいるです?」
一度だけコマチを見た紅い瞳が諌められたのを見て、この呼び方は嫌いなのかと気がついた。言葉数が圧倒的に少ないこの侍については、ほんのちょっとした仕草で、その感情を読み取るしかできない。初めて、この侍を見た時には、侍の大将である男が言う戦の雰囲気に呑まれて、怖い人だと思っていた。剣を納め、階段を昇ってきた男が傍を通る時に見た紅い瞳はコマチの目には酷く恐ろしく映ったものだ。それが平気になったのは、あの砂漠での戦いの後。
「丁度良かったです、キュウの字、ついてくるです。コマチの秘密の場所、教えてやるです」
侍が逃げを打つ前に、風に揺れているコートの裾をしっかと掴み、ぐいぐいと応えを聞く前に引っ張る。暫くは動こうとしなかった侍も、決して手を離そうとしないコマチに諦めたのか、大人しくついてきた。村人たちは、この口数の少ない侍を特に畏怖しているようだけれど、コマチの中で一番怖いのはあの侍の大将だ。とても優しいけれど、酷く怖い。
「ここはコマチの秘密の場所なんです。ほら、これ、オカラちゃんと作ったです」
雨風に晒されたせいか、祠も苔で覆われていた。お供え物だと、持ってきた花が根を伸ばしたのか、陽の下よりは元気の無い花が周りを囲んでいる。屈んだコマチに引き摺られるように膝をついた侍は、ひたと祠ではなく木の根元を流れる水の流れを見ていた。
「この水は他の小川と合流して、全部滝になるです。水が枯れても、違うところからまた水が湧くです。だから、あの滝が途切れた事は一一度もないです」
凄いでしょう、と自慢気に言うコマチに侍はそうだなと小さく呟くだけで、やはり表情を変えることはなかった。それでもコマチは気にしない。この侍がちゃんと自分の話を聞いているのを知っているし、怒っているわけでないのも知っている。空の色が変わり始めたのを見て、そろそろ戻ろうかと村を見返した。きっと、姉はコマチがいない事を心配する。
「じゃあ、戻るです。キュウの字は休まないですか?」
恐らく、この侍は寝ていない。人が寝静まった夜に活動し、昼間、どこかで寝ている事は知っていたので、いや、という答えは予想していた通りだった。ただ、気をつけて戻れという言葉は予想外で。え、と聞き返す前に紅い色は目の前から消えていた。



屋敷に戻れば、姉はまだ起きておらず、急いで布団へと潜った。夜明けまではあと少しだけだが、うとうとし始めた身体は睡眠を欲していて。眠りに落ちる寸前に思い出すのは、あの紅い瞳の侍。カンナ村の水よりも、もっともっと澄んだ透明な水。濁りの無い水なんて無い筈なのに、あの侍の水はとても澄んでいた。今度は、ちゃんと名前で呼ぼうと思い浮かび、そしてそれがとてもいい考えに思えて、コマチは眠りに落ちながらくふふと楽しそうに笑みを浮かべていた。








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