2、駆ける
彼は、己の技量を良くわかっていた。
今この時まで生き延びているのだから、ある程度の腕と、運はあったのだろう。しかし、彼はただの一兵卒であったし、上から見れば唯の捨て駒の一つ。彼は、それを良く分かっていた。
出世を望む仲間達からは一歩引いた位置にいるようにも見えたが、彼に出世欲が無いわけではない。ただ、上を、上をと高みを望む前に、常に隣に位置している死との対面を逃れるので精一杯なのだ。だから、彼はいくつかの武功を立ててはいても、未だに一兵卒の位置にいる。同期として軍に入った者達は、出世しているか、既にこの世にいないかのどちらか。彼のように一兵卒のまま、戦場の前線、死の淵で剣を振るっているものは珍しかった。


薄汚れた軍服は汗と血とオイルを吸い込み、元が何の色だったか判別しにくくなるまで色を変えた。だからといって新しく支給される服などなく。今まで潜り抜けてきた戦場の数に比べれば、彼の服はまだましと言えた。腕の部分が僅かに破けているだけで済んでいる彼の剣の腕は、自分で思っているよりも、高みには近づいているようだ。強くなるために、強さを磨く為に剣を振るわず、唯生きるためだけに剣を振るう彼の姿を、一体他の者はどう見ているのだろうか。ふと、戦の合間に訪れた、僅かな休息で思う。
しかし、自分がそうであるように、彼と同じ位置にいる仲間たちも自分の命を守る事で精一杯だ。馬鹿な事を考えたと、ふ、と吐息のような笑いが漏れた。



「何を、笑う」
まだまだ余裕があるじゃないかと、上昇しかけた気分を、一気に凍りつかせるような声を頭の上から浴びせられ、ひゅ、と彼は呼気を飲み込んだ。この、戦場には似つかわしくない、まるで舞台でとうとうと語る役者のような声音の持ち主を、彼は嫌という程知っている。自分の事で精一杯、その筈の戦場で、その男だけは異質な色を放っていた。
軍服では無い、血のように紅く染まった衣を纏う男は、戦場では命取りになる色ばかりを持っていた。紅い衣然り。何よりも、黄金色の髪が男の存在をこれでもかという程主張している。一本の鞘に収まっている二対の剣を背負い、男は壁に寄りかかるようにして座り込んでいた彼の横に、気配を感じさせずに立っていた。
男が仲間内の中で、軍の中で一際目立っていたのは、その様相もだが、何よりも。
「キュウゾウ、殿」
キュウゾウと呼ばれた男は、彼よりも後に軍に入ってきた、新参者と言っても良い程の歳だ。
己よりも歳も、軍歴も下の者に対して敬称をつけるなど、とは彼は思わなかった。キュウゾウは、彼よりも武功を立てている。それに、彼自身がキュウゾウという男の腕に対して、敬称をつけるに価すると判断していた。其れほど男は、キュウゾウの腕は立った。
「何を、笑う」
先ほどと同じ問いをかけられ、彼は先ほどよりも幾分緊張した面で、貴殿には関係の無い事だと告げた。へりくだる必要はない。上司というわけでもなし、命令でもない問いに答える必要はないだろうとも口にすれば、キュウゾウは怒るでもなく、静かにそうか、と呟いた。
「名は、」
「…名乗る前に、名を聞くか。まあいい。ヒョーゴだ」
何かにつけて型破りな男だと、再び湧き起こった笑みを押さえ込む事なく、ヒョーゴはふ、と息を吐き出した。一体全体、部隊一の腕を持つ男が己のような一兵卒に何用だと、キュウゾウが口を開くのを待つ。今までこの男と会話どころか挨拶すら交わした事はない。何の気の迷いかと思っている所に、男はヒョーゴの笑いを引っ込めるには十分な言葉を放つ。
「明日、切り込む。付き合え」
「…お主、俺を殺す気か?」
そう、間を経たずに応答できた己に驚きながらヒョーゴは、まるで少しそこまで付き合え、と言った気軽さで死地へと誘う男を、まじまじと見つめ返した。男なりの冗談かと、一瞬思うがその愚かな考えはすぐさま消え去った。
「本気か」
「俺は刀(斬艦刀)は動かせん」
「何故、俺だ」
「お前が一番意地汚そうだからだ」
「…喧嘩を売っているのか?」
「生に」
だから、お前を選んだ。
表情を変えることなく、とうとうと語るキュウゾウの白い顔を見上げ、ヒョーゴは唖然とするしかなかった。何をほざくのかと、困惑の声を上げることさえ出来ずにいるヒョーゴを気にするでもなく、キュウゾウは背を向け、明朝、とだけ言い残して去っていった。なんと。
「なんという奴だ…」
生に、命に必死でしがみついて生きてきたヒョーゴを、キュウゾウという、剣に愛された男が見ていたというのか。腹から湧き上がるものは、笑いか恐怖か。どちらでも良かった。唯、あと数刻で地平線を昇ってくる陽の光りを思って、ヒョーゴは光りのない闇夜を見上げた。







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