地図
綺麗好き、というわけではなく。かといって、部屋を乱雑なままにしておく、ということでもなく。
自分にとって過ごしやすいように、部屋の内装を時折変えているバルドを見ているコノエにとって、部屋の掃除、というのは簡単な埃を取るか、ベッドの上に放置されたままの本を元の場所(大体が本棚であったが、部屋の隅に詰まれた本の塔の中ということもあった)へと戻すといった、酷く簡単なものだ。
それに、コノエが掃除の為に叩きを持つ前に、その部屋の主人たる大型種の猫に綺麗にされてしまう。宿屋の主人という、忙しい役柄だというのに、コノエのつがいであるバルドはよく働き、動く猫であった。そして大柄な見目と違い、細やかなことにまで気が回る、共に生活をする相手としては最高の猫でもあった。
そんなバルドと共にいて、宿の仕事以外でコノエがすることといったら、そう多くは無い。といっても、普段の生活は宿屋での仕事と直結している為、客室のシーツを洗うついでに自分たちの衣類やシーツを洗ったり、客室を掃除するついでに自分たちの居住スペースを掃除してしまったりと、忙しい日々に流されている合い間にも家事はこなせていた。
しかし、コノエがなかなか手を出せないのも、その居住スペースで。
(…どこから手をつければいいんだ…)
積もりに積もった、本の山を前にしたコノエは途方に暮れた顔で一人、バルドと共に生活している部屋で立ち尽くしていた。
客室の無い一階にあるこの部屋は、元は二人部屋である客室よりも広いのだが、多趣味であるバルドに加え、もう一人コノエという主を増やした部屋は手狭とも思える程の内装だ。忙しい日々に追われ続けてきた二人が気がついた時には、部屋は今にも崩れてしまいそうなほど物で溢れていた。
どうしてここまで放置できていたのか、手の付け始めで躓いてしまったコノエは、はたきを手にしたまま腕を組み、今はゲンさんと共に食材の仕入れに行ってしまったバルドに情けなくも助けを求めてしまう。
目の前で山となっている本も、料理のレシピが書かれた紙も、大抵がバルドのものだ。コノエの私物など、バルドに比べればたかが知れている。いくらつがいという仲であっても、相手の了承無しに手を触れてもいいものだろうかと、眉間に皺を寄せて目前の難関を睨みつけていたコノエであったが、宿屋の仕事が暇というわけではない。昼食も終わり、洗濯も済んでしまったので、ついでだからと、自分たちの部屋を改めて見直してみた、というだけで客がいないわけではなかった。
宿屋の受付から呼ぶ声を聞きつけ、とりあえずコノエは目前の山はひとまず置いておくことに決めた。これは、バルドが帰ってきたから相談しよう。
そうと決まればコノエの行動は早い。手にした叩きを棚に置き、客である猫のもとへと駆けつけるべく部屋の外へと飛び出して行った。

死者たちによって傷ついた藍閃の街は、今ではその面影を探すことの方が困難な程に見事な復興を遂げていた。二つ杖の暦でいえば三年程の、長いようであっと言う間の月日。蔓延していた死への恐怖も何時の間にか薄れ、つい数年前までには聞けなかった子猫の声が、宿屋の中にいてもコノエの元へと届くようになっていた。
まだ雌のリビカの姿は珍しくもあったが、それでも以前よりは街中で見かけることも多く、これが本来の藍閃の姿なのだと、この街に古くから住み着いていたゲンさんがしみじみと漏らしていたのを思い出す。物心つく頃には既に雌の数は激減していたから、雌とすれ違う度に思わず振り返ってしまうコノエをからかったのは白銀の髪を持つ闘牙であったか。
火楼の村では、まだコノエが幼い頃に母を含めた幾人かの雌しかおらず、彼女たちは皆、コノエが大きくなる前に亡くなっていた。幼い頃は温かで、柔らかく、そしてその身でもってコノエをすっぽりと抱きしめてくれていた母親の思い出があるからか、この歳になってから雌を見て、その華奢さに驚いたものだ。
吉良の村で出会ったカガリを見た時も、鍛えられていると人目でわかる体付きながらもどこか折れてしまいそうな印象をコノエに抱かせた。藍閃で初めて訪れた娼館で雌を見た時など、そのあまりの儚げな様に思わず心配の念を抱いたほど。あんなに細い首で、よく頭を支えていられるとある日忙しい合間の僅かな一時にバルドに零せば、少し疲労を顔に乗せたつがいは、きょとりと目を見開いた後、耐えられずといった様子で盛大に噴出してくれた。
免疫の無い自分を酷く恥ずかしく思ったが、目尻に涙さえ浮かべているバルドにあんまりだと憤慨すれば、仕方がないさと頭を柔らかく叩かれた。雌の数が極端に少ない時代だったのだと、いまだ笑いを残しながらも真摯に云われてしまえば、コノエは羞恥に耐えるだけしかできないのだ。
つがいと決めたこの猫が、いい意味でも、悪い意味でもコノエよりも歳を重ねた雄なのだ。バルドに出会うまで発情期にもなったことの無かった自分が適うはずなど無い。まだ、コノエは若い。それに、村から出たことの無い自分とは違い、バルドはこの藍閃で宿屋を構える前まで祇沙のあちこちを旅してきた旅猫でもあったのだ。
だから、コノエはバルドに口で勝てる気がしないのだが、流石にこの目前の状況を黙ってはいられなかった。
改めて、山と化している本たちを眺める。バルドが帰ってきてから、と思っていたのだが、ふと、以前貸してもらった本を思い出し、まだ読み途中であったことを思い出してしまってからは駄目だった。本を探す程度ならばいいだろう、と本の一角を崩し初めたのがつい数時間前。順調に山を崩していったコノエが、その古ぼけた紙を見つけた時には陽の月が大分傾き始めた頃だった。
「…?なんだ、これ…」
本と、本の合い間に挟まっていた紙は端が変色していて、あまり綺麗な状態とは云えない代物だ。上に置かれた本を除き、紙を手にすればざらりと埃さえ溜まっている。随分以前から放置されていたようではあったが、軽く手で埃を払えばそこに描かれているものは鮮明に見れた。
「地図…かな?」
それは、褪せた色合いで描かれた、祇沙一帯の地図のようだった。描かれた当時はもっと色鮮やかに森や街を描いていたのだろうが、今コノエの手にある地図は茶色い沁みに大半を彩られている。紙の大半を占めているのが森で、家屋が集合しているのが村だろうか。陽に当たりすぎたのか、全体的に薄い色合いのせいで文字の判別が難しい。目を凝らしてみれば、地図の中央付近に一番大きく描かれている村に『藍閃』と書かれている。
いったい何時の時代のものかはわからないが、紙が焼け、絵の色が褪せてしまう程の時代から藍閃は祇沙でもっとも大きな集落だったのだろうか。
コノエだとて、祇沙を描いた見た事はあるが、記憶にある図と、今手にしている地図は少しばかり配置が違っている。村の名も、コノエが知らぬものもいくつかあった。恐らく、既に無くなってしまった村なのだろう。反対に、今では栄えている村の名がこの地図には載っていない。
へえ、と、思わず感嘆の声が漏れた。
こうしてじっくりと地図など眺める機会はなかったが、なかなかに楽しめる。他にコノエの知っている村はないだろうか、と藍閃から指で辿ってみれば、バルドとライの故郷である殺羅の名も、アサトの故郷である吉良の里の名もあった。
殺羅は昔から大型種の村で有名であったと聞くし、吉良の里は閉鎖的な色合いを持ちながらもその名は長々と人の耳に伝わっていたとも聞く。紙に描かれた道筋を辿ればすぐに辿りついてしまう距離を、コノエは数年前に駆け抜けていたのだ。あの時は、周りを見る余裕などなく、しかも森を蝕む『虚ろ』がいつ現れるかと戦々恐々としていた。
懐かしさと同時に、あの時に感じた恐怖や不安も甦ってきそうで、コノエは慌てて地図から視線を離す。そして、周囲の薄暗さに気づき、慌てて立ち上がった。随分と長い時間を地図一枚に夢中になっていたようだ。
いつも本に夢中になっているバルドを、こんな様子では馬鹿には出来ないなと、思ったところでそういえばバルドがまだ帰ってきていないことに気がついた。既に陽の月はその姿を地平線に隠そうとしている。いつもならば、もう夕食の準備を始めているバルドの姿が見れるのだが。
部屋を出、食堂を覗いてみるが、そこにバルドの背中は無く。帰ってきた形跡すらない食堂を見て、コノエは溜息をついた。
また、ゲンさんとどこかで寄り道でもしているのだろう。二人で出かけた日はいつも夕食の準備が遅くなる。そんな日はコノエが簡単に下準備をするのだが、その当のコノエもすっかりそのことを忘れてしまっていた。
やってしまった、と嘆く暇は宿屋の猫には無い。
とりあえず地図を本の上に置き、部屋から飛び出すように外に出て、慌しく準備を開始した。


「いや〜、お疲れさん」
今日も一日働きました、と背伸びをする猫の背中を見ながら、コノエも大きく息を吐き出しながら机に突っ伏した。祭りの時などに比べれば客も少ないこの時期、ある程度固定客のついたバルドの宿屋でも空き室が目立つのだが、宿自慢の料理を振舞う食堂は常に人で込み合っている。そのほとんどが常連客でもあるのだが、中にはその味を聞きつけてわざわざ食べに来る猫までいるんだから、いつも夕飯時が一番忙しいのだ。
しかも今日は準備が遅れたせいで休む間さえもなかった。ばたばたと食堂内をかけていくコノエに常連客が声をかけてきても対応する余裕もなかった。今度来た時にでも謝っておこうと、机の上でぼんやりと材料確認をしているバルドの背中を見る。
服の上からでも、浮き上がった肩甲骨が見えるバルドの体は、羨ましい程に雄らしい体だ。歳だ歳だと云う割には精力的に働いているバルドではあるが、こうして一日の終わりに溜息を吐き出しながら伸びをする姿を見ると、確かに親父臭いものがある。それでもコノエよりも体力があるのだから、このつがいはなかなか侮れない。
「あんたが寄り道なんかしないでもう少し早く帰ってくれば、こんなに大変じゃなかったんだ」
振り返りざま、此方に投げかけられた視線の柔らかさに気恥ずかしく思い、目を逸らしながら過去にも幾度とした忠告を改めて告げた。そんなコノエの心がわかっているのか、バルドはにたにたと質の悪い笑みを浮かべている。このクソ親父!と心の内で悪態をつき、さっさと寝る準備をしようと立ち上がったコノエの脳裏に浮かんだのは、部屋に築かれた本の山、だ。
「そうだ、バルド。そろそろ部屋の掃除、したほうがいいんじゃないか?」
「あー…そういや最近放りっぱなしだったな。物も増えてきたし…明日辺り整理するか」
図書館に返す本もあるしな、と顎を擦るバルドを見て、昼間に見た地図を思い出した。本と本の間に挟まれていたが、あれは図書館から借りてきたものだったのだろうか。バルドは最近本を借りるだけでなく、買ってくるようになっていたのでコノエには区別がつかない。高価とされる本をああも無造作に置いているバルドの神経の図太さに呆れながらも、その価値をよくわかっていないコノエが口を挟む理由もない。あまり買いすぎるなよ、と忠告くらいはするが、買った本の整理まで、コノエもバルドも頭が追いついていなかったようだ。
もしあの地図が図書館から借りてきた本の間に挟まっていたものなら、明日には図書館に返されてしまう。別に、また借りてくればいいだけの話なのだが、もう少しだけ、見ていたい気持ちもあった。

部屋へと入り、ランプに明りを灯すバルドを横目に、本の上に置いたままになっていた地図を手に取る。がさりと、あまり手触りの良くない紙の感触に、なんとなしに掌で埃を払うように撫でる。薄っすらと舞う埃に、あ〜あ、とバルドが吐息を零した。
「こりゃあ、あれだな。明日は大掃除だな」
「…別に、明日いっぺんにやらなくてもいいんじゃないか?」
「いーや。こういう片付けって奴は途中でやめた時の方がもっと酷くなってるもんだ。ちょっと大変だが、一気に片付けちまったほうが楽だろうな」
そういうものなのかと、部屋を見回してはみるが、目に入るのは乱雑に置かれた物の山ばかりだ。
二人が寝る為の空間は作ってあるが、机も見事に埋まってしまっている様は流石に危機感を覚える。明日の予定を頭で立ててその過密さに眉を寄せたが、ずるずるとこの状況が長引くよりはマシだろうと、コノエは渋々ながらに頷いた。
「そうと決まれば、今日はさっさと寝るか」
「ああ…」
そうだな、ともう一度頷こうとしたところに、バルドが「ん?」とコノエの手元を除きこんできた。近づいた距離にどきりとしたが、手元の地図に視線を向けているバルドに気づかれていないとわかると、コノエは僅かに息を吐き出し、もっと見えやすいようにとバルドに地図を差し出した。
「随分とまあ…古い地図だが。コノエ、どうしたんだ、これ」
「そこの…本の間に挟まってた。あんたのじゃないのか?」
「いくつか地図は持ってるが…これは見た事がないな。借りてきた本にでも挟まってだんだろうよ」
しかし、ほんとに古い地図だなあ、と腕を組んで地図を見下ろしているバルドは、どこか懐かしそうに目を細めている。何か、見知った名の村でも見つけたのだろうかと、コノエも地図を覗き込む。
「こりゃあ、コノエが生まれる前の地図だ。俺だって生まれてるかどうか、って時のだな」
「え、バルドが生まれる前?」
思わず目の前にいるつがいの顔をまじまじと見詰めてしまう。その視線の意味に気づいたのか、バルドは僅かに口を尖らせ、俺はそこまで歳喰っちゃあいねえぞと呟いた。いつもは歳だ歳だと言っている癖に、その反応はなんだと思ったが、大人しく聞く体勢に徹したコノエに、バルドは拗ねたような表情でふん、と息を吐いた。
「まあ…コノエにとっちゃ大昔のことだろうが…まあ、いいか。ほら…ここ見て見ろ」
ぶつぶつと呟くバルドがなんだか可愛く見えてしまう自分に内心で呆れながらも、骨ばった長い指が動く先を見詰める。『藍閃』と書かれた文字を上に辿り、僅かに東寄りにある村に指先が止まった。名前は擦れて見えなかったが、コノエの記憶には、その位置には村は無い。もうなくなってしまった村なのかとバルドに視線を移し、コノエは鼓動を跳ねさせた。深い色合いの瞳が、じっと、地図に描かれた村に注がれている。
その視線に含まれている色を…コノエは知っていた。
悲哀、だ。
「この村は…殺羅といざこざのあった村でな。…俺がまだ闘牙だった時分に、この村と大きな諍いがあった」
負けた村の行く末だな、と寂しげに顔を歪めたバルドの手を、コノエは思わず握った。バルドは僅かに視線をこちらに向けはしたが、かすかに微笑みを浮かべただけで、視線はすぐに地図へと戻されていた。その表情に、先ほど見た悲哀の色は無くなってはいたが、コノエの胸を締め付けるには充分だった。近しい者の感情を読み取りやすいコノエにとっては、僅かな乱れでさえ嵐のようなものだ。それが、一番近しいものであるならなおさら。
「…ごめん」
口から出た言葉に、コノエ自身驚いたが、この地図を見つけてバルドに見せたのはコノエなのだ。そんな顔をさせたかったわけではないのにと謝れば、謝る事はない、とバルドは笑った。
「むしろ謝るのは俺の方だ。…悪かった。辛いか?」
反射的に胸を抑えたコノエの手を今度はバルドが取り、力の入った手を解すように何度も何度も擦る。次第にうつってくるバルドの熱に、体の力が抜けていく。大丈夫だと、頷いて見せればゆっくりと、促すように抱きしめられた。
「もう過去の事だと思っていたんだが…悪かった。意外と引き摺る質だったんだな、俺は」
お前さんをこんなにさせるなんて、つがい失格だなあ、と軽く云ってみせながらも、優しく背を撫でる手はとても丁寧だ。その手に呼応するかのように、胸のうちを彩っていた悲しみの色が消えていく。他の猫相手ならばここまで引き摺られることはないのだが、つがいであるバルド相手には上手く壁を築けない。だからこうして、僅かな感情の揺れをもコノエは敏感に感じ取ってしまう。いつもは穏やかなバルドの感情に包まれているコノエにとって、小さな波紋は大きな波となってしまった。
もう大丈夫だから、と広い胸に手を置いて体を離そうとするが、抱きこむ手の力が弛む様子は無い。なんだ、と問うように視線を投げかければ、いやなに、と罰の悪そうな顔が目に入った。
「最近、こうしてゆっくり触れてなかっただろ?だから、もう少しだけ味あわせてくれ」
「…別に、いいけど…」
じゃあ、もう少しだけな、と。囁くように耳に吹き込まれ、少しばかりむず痒くは思ったが、じんわりと身を包む温もりを手放すのが惜しいのはコノエも一緒だ。
まだ、片付けも、明日の準備もあったが、もう暫くはいいだろう。明日も、その次の日もコノエたちにはあるのだから。










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