8、涙
そう、そうだ、彼女は決して涙を見せなかった。
今にも死にそうな彼女を拾った時も彼女は泣かなかったし、喧嘩をした時も、自分が久しぶりに帰ってきても、決して。








彼女を初めて見た時、薄汚れていたけど、とても綺麗で、可愛い娘だと思った。
回りにいるような、暗い目をして、絶望しているような娘たちとは違った、真っ直ぐで、美しい瞳。少女らしい柔らかな線に、肌蹴た衣服が妙に色っぽくも見えた。実は、あの時どこを見ていいか困ったことは彼女には内緒だ。

地面に倒れて、衣服が肌蹴て。だから、乱暴でもされたのかと思ったけれど、彼女の瞳を見て、霊力を感じ取って、違うとわかった。穢れてなどいない、彼女の心には、どこまでも綺麗な真っ直ぐとした、芯のようなものがあると。

決して、誰にも汚される事がない少女。

意識を失った少女を抱え、寝泊りの為の家に連れて行き、寝かせた。布に水を染み込ませ、顔の汚れを拭ってやると、恐ろしく綺麗な少女が目の前で横たわっていた。寝ていることをいいことに、あの時自分は彼女の頬を触ったり、長い睫に触れたり、金色の髪に指を絡ませていた。幼い頃の自分は、なんと大胆な事か。ああも思うがままに動いていた過去が羨ましくもあり、妬ましくもあり。目を覚ました彼女と、改めて自己紹介をしなおして、一緒にいようと、衝動的に言うまで、まるで夢見心地だった。金の髪も、白い絹のような肌も、大きくて宝石のような瞳も、小さな愛らしい唇も。舞い上がっていたのかもしれない。あんなに心を躍らせたのは初めてだった。
共にご飯を食べて、彼女が元気になってからは散歩にもいって、共に木の実を取った。身を寄せ合うように寝て、目が覚めると自分のものではない体温を感じ、彼女がすぐ隣にいる。顔が、知らず知らずのうちに笑みを作っていた。その顔は彼女には狐のように見えるらしく、化かされてる気分、というのが彼女の口癖になった。化かされているのかもしれないのは、自分のほうだと、彼女が笑って言う度にどこか覚めた自分が呟く。目の前にいる、菊の名を持つ少女は、幻なのではないのか、実は花の化身ではないのか。夜、目が覚める度に、彼女が隣にいることを確認し、存在しているのかを触って確認した。

何も言わず彼女の前から姿を消す自分を、彼女はいつか本当に帰って来なくなるのでは、と危惧した。けれど、それは自分のほうで。こうして、数日離れて、戻ってきたらまだ彼女が居ることを確認して。安心して、今度はもう一日離れてみようと、試して、戻ってきて確認して。帰らない期間を長くして、それでも彼女が待っていることを確認して。安心、したかったのだと思う。彼女がいつでも自分を待っていると。自分から離れることなど無いことを。ある時、いつものように数日帰らぬ日々があった。戻った時は既に夜深く、彼女は薄い布団に丸まって眠っていた。
初めて出会ったあの日から、もう何年になるだろうか。少女だった彼女は女性へと変化しかけ、肩につく位の長さだった髪は、既に腰に届く。まるで、花開くように、彼女は美しい女性へと成長していった。眠っている彼女の横に座り込み、規則正しく上下する肩にかかる髪を手にとった。ぎくりと、体が強張る。
眠っている彼女の顔は穏やかで、長い睫が頬に影をつくり、薄く開いた唇から呼吸音が聞こえる。その、彼女の目元が、泣いた痕のように赤く腫れていた。

彼女の笑っている姿が頭を過ぎった。


嗚呼、嗚呼。


思わず、呼気が漏れた。
そう、そうだ、彼女は決して涙を見せなかった。心配そうな顔もしたけれど、困ったような顔もしたけれど、泣きそうな顔は、果たして見た事があっただろか?戻ってきた時、全くと、呆れた顔で自分を出迎えた彼女が、こうして一人で、泣いていたのだと頭を殴られたような衝撃と共に理解した。何を、していたのか。なんと馬鹿な事をしていたのか。
自分の重荷にならないように、心配など、かけないように彼女はこうして隠れて泣いていたのだ。恐ろしく幼稚、で、自らの事しか考えない己を殴りたかった。叱咤したかった。吹き荒れる己の内情とは裏腹に、彼女は目元の泣き痕以外、何も無かったかのように、穏やかな顔で眠っている。震えの収まらない手で、彼女の頬へと手を伸ばす。
「・・・・乱菊」
名を、口に出せば、いつもは喜びに震える心に、剣が刺さったような苦しみが混じる。
「・・・・・・・乱菊」
暖かな、彼女の頬。出会った頃は白を通り越して青白かったが、今では桜の花弁のように朱が差し。ふるりと、乱菊の睫が震え、昔から変わらぬ、自分を捕らえて離さぬ瞳が姿を表した。
「ギン・・・?」
帰ってきたの、と呟く彼女に、何も言葉が返せない。何も言わない自分を、乱菊はぼんやりと見つめたまま、はあ、と溜息を吐いて、ああ、また夢なのねと呟いた。彼女の夢に、自分が出ている事に驚き、夢にまで出て彼女を縛り続けていたのかと、苦しみが胸を覆う。まだ半分以上夢の中にいる乱菊が、頬に添えられているギンの手に、自分の手を重ねた。
「・・ねえ、ギン・・貴方、どこにいるの?」
まだ、帰ってこないの、と囁く彼女の言葉は、ずしり、ずしりと己の心に降り積もる。
「・・・乱菊、ごめんなァ・・・」思わず、謝罪の言葉が口から漏れた。
ごめんなァ、許してなァ、だけど。
「一緒に、いてなァ・・・・」
彼女がいない生など、考えられない。彼女がいなかった頃など、もう思い出せない。泣きそうに歪んだギンの顔を見つけ、乱菊は頬に添えられた手が震えている事に気がついた。
「・・・・・馬鹿、言わないでよ・・」
馬鹿、言わないでよ、もう一度繰り返す。
「一緒に・・・いようよ、」
ずっと。そんな思いを込めて、乱菊は下りてくる瞼に逆らうことなく、再び眠りについた。


彼女が起きたら、まず『ただいま』と言おう。きっと彼女は呆れた顔で、『おかえり』と言うから、その手を取って、散歩にでも行こうか。これからも、自分の放浪癖は治らないかもしれないけど、彼女を少しでも安心させる為に。また、ここに戻ってくるから、と彼女が狐みたいと言う顔で、約束しよう。

少しでも、貴方の心が安らぐように。






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