穏やかな水面に、小さな、ほんの小さな小石が投げ込まれ、水面に波紋が広がった。乱菊は自分の投げる小石が作る波紋を眺めながら、ギンの帰りを待っていた。ギンと、乱菊が住みかとしている場所の近くに、この小さな沼はあった。鬱蒼とした木々の中、ポツンと、その沼があった。
この沼を見つけて、乱菊に教えてくれたのはギンだった。
水底まで見える程透明で、沼の中に倒れこんだ倒木に魚が巣を作っているのか、小さな稚魚が木の周りを悠々と泳いでいて。水面を覗き込むと、乱菊の長い髪が垂れ落ちた。慌てて頭を引っ込め、先が少し濡れた髪を服の袖で拭う。
腰まで伸びた、金色の髪。
この辺り一帯では珍しい色らしく、外を出歩くと他人の目を集めてしまう。女衒の男に連れていかれそうになった事もあった。見事な御髪だと、にこやかに乱菊に近寄ってきた男は、お前ほどの器量だったらきっとたくさん稼ぐに違いないと、乱菊の腕を掴み、強引に連れていこうとした。ギンがその男の目に思いっきり砂をぶつけてくれたお陰で何とか逃げることは出来た。
「乱菊は隙がありすぎるんや。」
全力で走って、まだ二人とも肩で息をしている時、ギンは凄く不機嫌そうにそう言った。
「心配でたまらん」
繋いだ手に、力が篭って少し痛かったが、乱菊はなんでもないように、じゃあギンがずっと傍にいてくれればいいじゃない、と軽く言った。言ってしまった後で、言うんじゃなかったと後悔した。ふらりと、自分に内緒でどこかに出かけてしまうギンに対する不満が篭っていたのかもしれない。そんな僅かな乱菊の思いを嗅ぎ取ったのか、いつも狐のように細められたギンの目が、僅からながら瞠目した。あ、と思った時には遅く。困ったような笑顔を浮かべて、そやね、と小さな声で答えたギンに、胸が痛い。思わずごめんねと言った乱菊に、ギンは何がと、いつもの笑顔で振り返った。
繋いだ手が、自分のものと比べて、とても大きいと気がついたのは、いつだったろう。身長だって、昔は大差なかったのに、今は乱菊が見上げるほどの差が出来た。前を歩くギンの背中は、大きくて、男の人の背中だった。なんで、自分は男じゃないんだろう。きっと、男だったらもっと近くに寄る事ができたかもしれないのに。肩を並べて、ギンの行く場所に一緒についていくことができたかもしれないのに。
「あたしも、男だったらよかったのに」
ぽつりと、つい出てしまった心の声に、ギンが面白いくらいの素早さで乱菊を振り返った。
「あかん!」
乱菊が男なんて、そんなのあかん!先ほどの、困った笑顔も、いつもの狐の顔も消し飛ぶ位の、必死の形相。繋いだ手が、離れたと思う間もなく、二の腕を掴まれ、引き寄せられる。眼前に、必死なギンの顔。
「乱菊が男なんて、ボクそんなん嫌や。」
あ、ちょっと泣きそう。
「だって、男だったら力仕事もできるし、今みたいに草履とか、古着を縫ったりするよりもっと稼げるじゃない」
それに、ギンを助けることもできるし、と心の中で付け加えて。なんでそこまで否定するのか、わからない、といった風情の乱菊に、ギンはどうしても溜息が漏れる。乱菊が、可愛い可愛い乱菊が、男だったらと考えて、ギンは思わず眉間に皺をつくった。あまり変化することのないギンの顔に、新しい表情をみつけ、乱菊はすでにそちらに意識を取られてしまう。すでに違う所に意識を向けてしまった乱菊に気がつかず、ギンは必死に言い募った。
「いやや!乱菊みたいな可愛らしくて綺麗な娘が男なんて!そんなんボクいやや!」
力仕事はボクがやるし、乱菊はそのまんまでええねんて!必死にギンが乱菊を説得すればするほど、乱菊はどんどん不愉快な気持ち襲われる。
「何よ!女だからって、男だからって!あたしはただギンといたいの!もっと傍に寄りたいの!どうして駄目なのよ!」
必死で、乱菊は女の子のままでええ、今のままでええと言い募るギンが、まるで今の距離を縮めるな、傍に来るなと言っているようで。ギンがそんな事を聞けばとんでもないと驚くだろうが、乱菊は不安で、寂しくて、悲しくて、恋しくて。めちゃくちゃな心情で、思わず吐露してしまう。しかも眉間の皺に意識を集中させている間にギンが言った『可愛らしくて綺麗な娘』という部分を乱菊は聞き逃していた。乱菊は女でええ、という部分しかしっかり聞いていなかった乱菊は、悲しいやら悔しいやらで顔をぐしゃぐしゃにした。
「何よ!ギンの馬鹿!一人で勝手に大きくなって!あたしを置いてどこに行くのよ!」
もう乱菊自身何を言っているのか理解していない。今まで少しづつ積もってきた不満や、不安が彼女の心を苛み。一気に決壊した鬱憤はもう彼女の意思でも止められなかった。「傍にいてよ!隣にいてよ!置いて、置いてかないでよ!」呆然と、突然叫び始めた乱菊を、ギンは見詰めていた。あまりの感情の強さに、自分が恋しいと泣く彼女の恋情に、そこまで追い詰めたという胸のしめつけに。体が、思うように動いてくれない。目の前で、顔を涙で濡らし、嗚咽交じりにギン、ギンと、名を呼ぶ少女。もう、何も考えられなかった。どんなことがあっても、冷静に対処できたはずの、自分がなんて様だ。
気がつけば、強く、強く彼女を胸に引き寄せ、抱きしめていた。
抱きしめられたと、気がつくのに少し時間を要した。混乱した頭で状況を確認することはむずかしく。ただ、この身を包み込む体の大きさに、恐怖を抱く。
「や、・・やめて・・・!」
怖い。
違う、ギンは、もっとふわりと優しく抱きしめてくれる。こんな、こんな身を焼くような強さで、全てを攫うような声で。こんなに、胸が苦しくなる抱き方なんて、しない。
「ギン・・・!」
強く胸を叩いて、離してと震える声で訴える。胸も、腕も、こんなに強くて、熱くて、大きくなっていたなんて。
「乱菊・・・」
耳の横で、常よりも、低い掠れた声で名を囁かれる。背中を一気に熱が駆け上がった。熱い熱い熱い熱い。
こわい。
「いやぁ・・・!」
死に物狂いで暴れて、男の腕から逃れて、今まで自分を抱きしめていたのはギンだと思い出して。苦しそうに、痛そうに、こちらを見詰めるギンの目が見れなかった。あの目の中に、今までの自分たちの生活を、距離を変えてしまいそうなものを見つけてしまいそうだから。自分の体を守るように両手を交差させて腕を掴む乱菊を、ギンはただ見詰めることしかできなかった。どれくらい、そのままでいたのだろうか。先に動いたのは、ギンが先だった。こちらに向かって手が伸ばされると、乱菊は体を傍目にもわかる程強張らせた。伸ばされた腕は、そのまま静止し、結局乱菊に届くことなく、ぱたりと下ろされた。
「・・・・・・・ごめん」
初めて聞く、ちいさな呟き。遠ざかる足音に、乱菊は追うことも、声をかけることもできなかった。
その日、ギンは結局帰ってはこなかった。
その次の日も、ギンは帰ってこなかった。
そして、今日も、日が沈んでもギンは帰ってはこない。
一人で、二人の住処にいるのは辛くて、考えもなく外に出た。足の向くままに歩くと、ギンが教えてくれた、この小さな沼に出た。月が水面に映り、微かな風で靡く草と、生まれる波。近くにある小石を拾って、ギンがやっていたように、投げる。けれど、ギンのように上手くは跳ねなくて、ぽちゃんと、小石は沼に沈んだ。そこから生まれる波紋は、沼全体に広まり、鏡のように映った月を歪ませた。小石を投げたのは、乱菊。波紋を生み出したのは、乱菊だ。ギンは、もう帰ってこないかもしれない。唐突に、その考えが頭に浮かんだ。足から力が抜け、ストンと、そのまま垂直に地面に座り込んだ。
ギンは、もう帰ってこないかもしれない。
投げた小石は、もう戻ってこない。同様に、投げた言葉も、戻ってこない。心に到来する虚無に、乱菊はなす術もなく呑まれる。変化のない、穏やかで、安穏とした生活が、消え去っていく。ギンに抱きしめられた時、僅かだけれど、ギンの魂の思いが伝わってきた。それは乱菊にとって、好まざる感情であり、それを知ったギンは傍には居られぬとばかりに乱菊の元を去った。乱菊が望んだのは、ギンと二人で過ごす、あの穏やかな春の陽射しの暮らし。飢えもあるし、殺される恐れもあるこの界隈だけど。思い出すのは、ギンの笑顔に、差し出された干し柿に、自分の名を呼ぶ彼の声。ギンさえいれば、一緒にいてくれるだけで、乱菊は何もいらなかった。
その生活を、暖かな暮らしを崩してしまう感情など、乱菊は必要ないと思ったのだ。邪魔なものだと、ギンの思いを切り捨てた。それは、自分の中にも到来していたはずの熱なのに。気がついていないと嘘をついて、ギンの情に目を逸らし。その結果が、この様だ。
広がった波紋は、やがて収まり、再び水面に月が姿を現す。何もかもが、酷く億劫だった。だけど、乱菊は立ち上がり、ギンと二人で過ごした住処へと戻る。ギンが帰ってきて、お腹を空かしているかもしれない、寒がっているかもしれない。だから、火を焚いて、暖めておかなければ、水を汲み、直ぐにでも沸かせるようにしなければ。お帰りと、汚れた顔に笑みを浮かべて帰ってくるギンに、ただいまと言えるように。
だけど、ギンはずっと帰っては来なかった。
戻る