12ぎりぎりまで
例えば、そう例えば。

ぎりぎりまで近づいたら、彼はどうするのだろう。

動いてくれるのか、逃げてしまうのか、それとも。















虫の鳴き声が夜の暗闇に響き渡り、暗いはずの夜道を、妙に騒がしく照らしていた。
昼間はへばりつくような空気と突き刺すような陽射しで弱っている体に、夜に吹く風は気持がいい。汗のなごりでべたつく肌に、さらりと軽い風が撫でる。既に時刻は門限を過ぎていた。しかし、今回は学校行事の手伝いをさせられていたというきちんとした理由がある。あの親子の触れ合いにしては些か激しすぎる(うざいともいう)父の絡みを受けずにすむと思うだけで、普段急いで帰らなければならない夜道も、いいものだと笑みが浮かぶ。昼間とは表情を変える見慣れた道の、夜の姿をゆったりとした歩みで通る。
梅雨に入り、最近見られなかった夜空を見上げ、もうすぐ夏だなあと呟いた。

「そうですねえ」

「・・・・・もう何も言わねえけどよ、お前なんなんだよ。」

「言ってるじゃあないっすか」

「うるせえ」

誰もいるはずのない闇からかけられた声に、一護は驚くよりも先に呆れた。街灯の明かりにふっと浮き出た男の姿をみたら、大抵の人間は眉をひそめるだろうその格好。黒い羽織が闇に溶け込み、胡散臭さを倍増していた。何より、帽子を目深に被っているせいで、顔の半分が伺えないのが、一護は気に食わない。カランコロンと下駄の音を響かせて男は街灯の明かりから出て一護に近づいてきた。長身で、さらに下駄の足がプラスされて、一護は少し顔を見上げる形になるのも気に入らなかった。

「コンバンハ、黒崎さん。」

カランと、高い音を立てて、男は一護の前に立った。縞柄の帽子からあちこちに飛び出す髪は、月明かりの下だと白く輝いている。綺麗だなと、素直に思う。

「何か用?」

「あれま、素っ気無い。いえね、散歩してたら見たことあるオレンジ頭が見えましてね、声をかけてみたって次第ですヨ」

再び歩き始めた一護の横に並んで、男はカラコロとわざとらしく音をたててついてきた。そういえば、男が声をかける前、いや、姿をみせる前に下駄の音はしていただろうか。

「そのまま通り過ぎてくれりゃあいいのに・・」

「本当に素っ気無い・・・若いのにそんなノリ悪くちゃあ駄目でしょう。」

風に靡いて、男の黒い羽織が一護の腕を撫でた。内面を走る動揺を気付かれないように、一護はわざとらしく苛ついた声でアンタには関係ない、と闇に吐き出した。男の笑っている顔が、視界の隅に入る。くそう、と心の中で毒づく。一護の隣を歩く男は、大人だ。常識の定義にあてはまるような人種ではないが、一護よりも長く生きている、大人だ。己の心の余裕を、いともあっさり奪い去り、奥へ奥へと突いて来る、嫌な大人。

「関係ないだなんて、悲しい事を言ってくれますねえ。」

嫌な大人は、そうんな事を言って手を絡ませてきて、耳に言葉を吹き込むように顔を近づけてくる。引いた筈の汗が、肌に浮かぶ。本当に、嫌な男だ。

「離せ。暑い。」

手が、耳が、顔が、熱い。きっと、この男には全部わかっているんだろう。手が緊張で汗ばんでいる事も、男の息を感じて赤く染まる頬も、本当はあんたが好きなんだって事も。こうして拒否ばかりを示す一護を、この男は笑っているに違いない。だって。これは抵抗なのだ。最後の、一護の抵抗。目も、耳も、頭も、本当は全部アンタに向いてるんだ。だったら、せめて上辺だけでも、抵抗を示してもいいじゃないか。だから、これは一護の最後の抵抗。

「意地っ張り。」

いい加減、陥落してよとばかりに、男が溜息と共に言葉をのせてくる。ぐっと、一護は唇を噛み締めた。まだ、落ちない。せめて、せめて一護がもう少し余裕を持てないと。もう少し。・・・一体何がもう少しなのか。そう、本当は。もう。
風が、男の羽織の裾を攫った。
腕を、ちり、と掠めた羽織に誘われて、思わず伸びる手を寸前で握り締めた。
少しでも背中を押されてしまえば、後は転がり落ちるだけ。今、一護いる場所は坂道の天辺。

あと、少しだけ。






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