腕の傷は出血量に比べ、それほど深いものではなかった。
焼け付くような熱を持つ傷口を洗おうと、湖へ向かう一護の肩を男が掴んだ。
「?何だよ?まだなんかいるのか?」
先程見た、男が「ホロウ」と言っていた化け物がまだいるのかと思い、青褪めた顔で男を振り返る。しかし、振り返った先では、男は訝しげな、何か奇妙な物でも見るような目つきで一護を見つめていた。
「まさか、」
信じられないといった口調で、呟く男に一護は頭を傾げた。一体何を目の前の男は気にしているのか、さっきまではへらへらと緩い笑みを浮かべていた顔が真剣な表情を浮かべていることにも一護は驚いた。薄い金の髪が月の光でうっすらと光っている様は美しかったが、その下にある険しい瞳のほうが印象が強い。男の瞳が金に光ったと思うと、男は一護の怪我をしている方の腕を引き寄せ、なんの断りもなく傷口を舐めた。
「な・・!」
「やっぱり・・・」
あまりの事に言葉にならない一護をちらりと見遣って、男は流れ出る血を舌で掬い取り、味を確かめた。呆然と男を見ていた一護だが、再び傷口に舌を這わそうとしている男の顔をみて、弾かれたように腕を引っ込めた。傷が痛んだが、気にならないほど男の行動に衝撃を受けていた。
「お前・・!何すんだよ!気色悪ぃ事すんな!」
胸に抱え込んだ腕に、男の舌が這う感触が残っていて、一護は戸惑いの含んだ怒りを男に向けた。鋭い瞳に射抜かれでも男はどこ吹く風で、今度は一護の腰に手を回し、ぐいっと引き寄せた。あまりの手早さに、警戒して構えていたはずの一護も抵抗らしい抵抗が出来ぬまま男の腕に抱かれた。突然近づいた他人の体温を感じ取る前に、一護の唇に冷たい何かが触れた。驚く程近づいた男の顔が、以外に秀麗だと気がつくと同時に、男によって口付けをされているのだとも理解した。
はあ!?と驚きに開くはずだった唇に男は遠慮なく舌を入れ、一護の舌を絡め取った。
ちなみに、一護は今まで誰かと口付けを交わした事はない。
近所に住む女の子達に興味がないわけでもないが、それよりも父の仕事を手伝うという役割を持っていた為、口付けを交わすような付き合いはした事がなかったのだ。16、7にもなると、どの家も親が結婚相手を見繕ってくるのだが、一護の父は相手は自分で見つけろという人だったし、一護自身もまだ早いと感心は薄かった。恋に対して憧れのようなものも抱いていた。父と母のように、親の反対を押し切って相手と結ばれるという強い恋情を抱いた相手とそういう事をしたかった。
だから、だからこんなにあっさりと、しかも出会ったばかりの男に唇を奪われるとは思いもよらず。一護の中の憧れがひび割れ、崩れ落ちる音を聴いたような気がした。しかし、衝撃を受け茫然自失となっている一護にはお構いなしとばかりに、初心者に対しては些か濃厚過ぎる口付けを長々と男は味わっていた。
少年の血の匂いが鼻腔を掠めた瞬間、全身に鳥肌が立った。
反射的に、背を向けて歩きはじめていた少年の肩を掴む。振り返った少年の顔は、今だ幼さを残した顔で、大人になる為の成長の狭間にいるアンバランスな顔をしていた。頬にまだ柔らかな肉を残した幼い顔なのに、そのキツイ位の眼差しは大人びて。
少年の腕の傷に視線を移す。
それほど深くはない傷だが、出血が多い。ぽたぽたと、地面に垂れ行く紅い雫が土に吸い取られていく。まさかと、思った。先程から漂う香りに、頭の奥が痺れる。濃厚な血の匂いは、男の本能を刺激する。甘い、花の香りにも似た匂いは、少年の血から漂っていた。思考能力が鈍る。理性の変わりに奥深くに潜んでいた欲が男を突き動かした。
芳しい匂いに誘われるまま、少年の細い腕の傷口に口を寄せた。匂いが、濃くなる。
貴重な物を舐め取るように、慎重に舌を這わして少年の血を味わう。
血に触れた瞬間、なんとも言えぬ味が口内に広がり、男の体を震わせた。
少年の血は、美味だった。今まで口にした何よりも男の舌を刺激した。
抑えが利かない。血を全て舐め取る為、再び舌を這わせた所を、少年が腕を引っ張ったせいで、それは叶わなかった。舌に付いた血を、じわりと味わう。
「やっぱり・・・」
思った通り、目の前の少年は『餌』だ。我等のような、魂魄の種族にとって上等のご馳走。
一度血の味を占めれば、確かに目の前の少年からはおいしそうな匂いがする。今まで気がつかなかった事に驚きを隠せないが、まずそれよりももっと味見をする事が大切だった。逃げた子供の腰を掴む。そう、まだ子供だ。こんなにも細く、肉が薄い。抱き寄せるとふわりと、いい匂いがした。男という所が惜しいが、それでも美味な事に変わりはない。それに、闇夜にも鮮やかな髪の色を自分は存外、好んでいる。
軽く開かれた唇が自分を誘っているように見え、思わず唇を合わせた。
柔らかく湿った唇は甘く、更に貪るため口内へ舌を挿し込む。
唾液を全て掬い取るように小さな舌を絡めとり、人間の熱と甘美な味を堪能する。味覚を刺激し、欲を刺激する。ふつふつと沸いてくる己の底に眠る力のようなものが、だんだん明確な形になっていく。上級な『餌』になると、体液を吸収するだけで力が強まる者がいると聞いていたが、まさか実在したとは。
丹念に味わっていると、抱えていた細い体からカクンと力が抜けた。
そのまま座り込みそうな体を慌てて抱えなおし、顔を離して『餌』を見る。カタカタと小刻みに震え、目尻に雫を溜めた驚愕の眼差しで見上げてくる子供は、先程男が吸い付いていた唇を手で覆い隠していた。
「な・・・てめえ!何すんだ!」
「何って、キスですよ?」
何カマトトぶってるんですかと笑う男を信じられぬ目で見詰める子供は、驚きを通り越すと、頭が焼き切れる程の怒りを男に向けてきた。抱えた細い体から突然飛び出してきた拳を、男はあっさりと避け、逆に伸びきった腕を掴み寄せた。
「・・っ!放せ!」
「嫌ですよ。放したらアナタ、また殴るでしょう?」
「当たり前だ!殴らせろ!この変態!」
「変態・・?!」
命の恩人に対してなんて事を。そんな思いが顔に出たのか、少年は鋭く読み取り、いきなり男にキスするヤツなんざあ変態に決まってる!と頭突きをかましてきた。
「痛い!」
「・・っこの・・・石頭!」
男はそれほど痛くはなかったが、どうやら少年はモロに頭に響いたらしい。
自分で仕掛けてきた癖に。
頭を摩りながら非難の目を向けると、少年は自分を拘束していた腕からするりと逃げ、負けじと睨み返してきた。
「お前・・・!一体なんなんだよ!」
あまりにも悔しくて、恥ずかしくて。沸騰しそうな頭では上手く質問を考えられず、罵りも浮かばず、やっと口から出たのはそんな言葉だった。
「いきなり現れて、あんな化け物簡単に倒して、それで、それで、いきなりキスして・・!」
「喜助です。」
「へ?」
「ですから、喜助です。浦原喜助。アタシの名前。」
あなたは?と邪気のない笑顔で言われて思わず一護、と答えた自分に舌打ちしたい。素直に名を名乗ってしまうなんて。
「一護・・一護さん、ね・・。ねえ、アナタ、アタシに抱かれてみない?」
「・・・・・は?」
「だから、アタシと寝てみない?」
ね?と可愛らしく自分を指差して訪ねてくる浦原喜助という男に、一護は口が引きつるのがわかった。一護の放った右ストレートは綺麗に男の顔面に決まった。
戻る