ただひたすら、自分を追ってくるものから逃れたかった。がさがさと、木々を倒す音に、耳に障る高い声が自分に近づいてくる。自分の呼吸音と、跳ね上がる鼓動の音が耳の直ぐ傍で聞こえて、さらに一護の恐怖を煽った。
アレはなんだとか、どうしてこんな事にとか、そんな考えが浮かんでは直ぐに消えていく。考えている暇は無い。ただ、走れと、動けと自分の体に命令を出すだけだ。足が何回も、もつれそうになる。あちこち、葉で傷つけたのか血が滲み出ていることも、少年は気がついていない。
走って、走って。ぶわりと、背後から風が吹いた。堪らず、前に倒れた。咄嗟に手を突き出し、倒れると同時に起き上がろうとするが、先程まで、月の明かりで見えていた周りが暗闇に覆われていた。
何かが、自分の前にいるのだと、気がつき、ぞわりと鳥肌が立つ。
急いでそこから逃げなければならないと、頭ではわかっているのに、動作は反対に酷く遅い。ゆっくりと、頭を地面から、頭上へと向けると、そこには自分の後ろにいるはずの、白い化け者が立っていた。総毛立つ。かたかたと震える歯に、収まれと命を下しても、まるで己の体ではないように止まらない。
仮面のような顔が、一護へと近づいてくる。ひっ、と仰け反る一護を、ソレは笑うように顔を歪めた。
「恐ろしいか恐ろしいか恐ろしいかァ」
甲高い咆哮とは違い、低い地の底を這うような濁声を聞き、一護は驚きに目を開く。耳に入ってきた声を、目の前の仮面が発したのだと、理解するのに数秒かかった。喋れるのかと、声帯を震わせて、口の中で呟くと、ソレはかっかっかと芝居がかった笑いを上げた。
「人ではない、このような化け物が喋るのがそれほどおかしいか、おかしいかおかいいかァ?」
確かに、喋っているのは人の言語だが、どこか調子はずれな、愚鈍な喋り。それがさらに恐ろしさを煽り、一護は体の震えを止める事はできなかった。その様子を満足気に見下ろす仮面の顔が突如表情を一変させた。驚いたような、信じられぬような、けれど、甘美な顔を浮かべた仮面は、ゆったりと一護に近づき、腕を振り上げた。
思わず、片腕を顔を庇うように上げると、次の瞬間、引き攣れる様な痛みが一護を襲った。腕を切られたのだと、仮面の爪についた血で判断する。
「おお、おお、おおおお!!!」
仮面は愉悦の表情のまま、咆哮を上げはじめた。一体何がどうして、そうなっているのか。全く理解できない情況に、一護はじりじりと、仮面から離れるように後ろに下がった。爪についた一護の血を、至福の表情で仮面はねっとりと長い舌で舐める。
「おおォォぉお!」
狂ったように頭をふり、唾液を滴らせながら仮面は一護へと近づく。一護のような少年など、一口で飲み込んでしまえる程大きな口がカパリと開き、長い舌が一護の頬を舐め上げた。恐怖で流れていた汗を、舐め取るように舌を這わす仮面の動きに、汗が止まる。あまりの事に、体全部で現実を拒否した。震えも、最大点を越えてしまった為か、既になく。にィと、舌なめずりをした仮面の口が、眼前に迫っているのを視界に入れた。
ああ、食べられる。
目を閉じる事など、できない。あまりの恐ろしさに感情も麻痺し、ぼんやりとした思考でそう思った。仮面の口が、頭に齧り付こうとした瞬間。ボトリと、何か重いものが落ちる音が聞こえた。その音に、僅かに思考が現実へと戻った一護は、その音がした方向へと視線を遣った。
なにか、長くて、厚い、赤いものが仮面の横に落ちていた。
それが何か、知る前に仮面の口から絶叫が響き渡った。その口に、あの長い舌はなくなっていた。
ああ、あそこに落ちているのが、仮面の化け物の舌かと、頭が認識した瞬間、目の前の仮面が割れた。
パキンと、氷が割れるような音で、仮面の顔が上下にずれていく様を目の前で見る。
化け物は、地面に倒れる直前、塵のように細かく砕けて、風に飛ばされていった。
呆然と、目の前で起こっていることを眺めていた一護に、ようやっと死にかけたという恐怖が舞い戻り、どっと、汗が噴出す。上手く、呼吸が出来ない。かは、と息を吐き出そうとしてみるが、目の前で起きた事に追いつかない体が。いう事を聞かない。
「落ち着いて」
突然上から降ってきた声に、鈍い動きで顔を上げる。酸素を取り込めない苦しさに目が霞み、こちらを覗きこむ人の輪郭さえあやふやだ。だれだと、問いかけようにも、声にならない。見知らぬ人間に、ままならぬ呼吸に、焦る。
「落ち着いて。・・・・・アタシの呼吸に合わせて?」
額に、暖かな感触。アップにせまった男の顔がぼやけた視界に鮮明に飛び込んできた。目に飛び込んできた瞳がきらりと金色に輝いたように見えたが、ぜえぜえと苦しくなるばかりで気にはしていられなかった。
「ほら・・・合わせて?」
頭に、直接響いてくるようだった。
自分の呼吸の音が大きくて、よく聞こえなかった男の声。
突然聞こえ始めた声を疑問に思う余裕なんてないから。
ただその声に、従う。
男が、吸えば、それにつられて肺が膨らむ。吐いて、吸って、吐いて。
呼吸が楽になっていくのが、わかる。触れ合っている額の部分がじわりと熱を持ち、徐々に全身に熱が浸透していく。呼吸が落ち着き、頭にも酸素が行き渡り、ようやっと目の前にいる男に助けられたのだと思考が追いついた。もう大丈夫だと告げる前に、男が一護から離れていった。それと同時に全身を包んでいた熱がすっと引いてゆく。寂しいような、勿体無いような思いが心を掠める。なんだこれと、今日何度目かの疑問が浮かぶが、取り合えずは。
「あんた、誰?」
「・・・・・・まずはお礼とかじゃないんですか?」
呆れ顔の男に見下ろされ、一護はそうかと、恥ずかしそうに唇を尖らせて、頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとうございました。あと、・・落ち着かせてくれて。」で、あんた誰?
いえいえと男が言う前に一護は顔を上げ先ほどと同じ質問を投げかけた。
「えーっと・・・通りすがりの、旅人?」
「なんで疑問系なんだよ。自分のことだろ?」
はぐらかそうとしているのかと思ったけれど、男は真剣に頭を捻り、うーん、と悩み始めた。
「なんて言えばいいんでしょうねえ・・・、アタシ、何に見えます?」
「はあ?」
「まあ、いいから。何に見えます?」
からかってんのか。むっとしながら、一護はじっと男を観察してみる。
薄い色の髪は伸び放題はね放題、少し垂れ気味の瞳はなんだか眠そうにも見える。身長も結構あるみたいだが、そんな体格はいいようには見えない。一見してだが。だけど、先ほどの化け物をあっという間に切り伏せたのはこの男だ。どうやってやっつけたのか、一護には見えなかった。多分、一瞬で。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・剣士?」
腰に下げた剣からも判断して、流れの剣士かと思ったのだが、どうも男の雰囲気というか、表情がそうは見えずに、自信の無い声になってしまう。男はその答えに苦笑して、剣士ねえ、と呟いた。
「じゃあ、それで。」
「はあ?!んだそれ?!」
ふざけんなよと、食って掛かれば、だってと男は困った顔であっさりと一護の腕を掴んだ。
「こっちではアタシの事なんて言えばいいのか知らないんすよ。だから、まあ『剣士』でお願いします。」
男が話してる間、懸命に腕を放そうとするがびくともせず。掴まれた腕とは反対の腕は怪我を負っているので使えない。それほど屈強な男には見えない男に、こうも簡単に押さえ込まれたことに悔しさが込みあがるが、男の言葉に少しだけ頭が冷えた。
「こっち?じゃあお前他の国の人間なのか?」
「え?・・・ええ、まあ、そうです。」
「へー!俺他の国の奴ってはじめてみた。みんなあんたみたいな格好なのか?」
男が他国からの旅行者だと知ると、途端に態度を変える一護に、男は呆気に取られた。
「いえ・・そんな事はないですよ。」
「ふーん・・・。あんな化け物倒しちゃう奴が他の国にはいるんだなあ・・。」
この国で、あの化け物に立ち向かおうとする人間など、皆無だ。皆、夜になると戸を閉じ、門を閉めて、朝になるのを待つだけで。まさか倒せることが出来るなんて思いもよらなかった一護は、素直に驚きを表した。
「あれは”虚”です。」
「ホロウ?」
「ええ。あなた達が化け物って呼んでるアイツ等ですが、アタシ達は”虚”って呼んでます」
さっきのはまだ若い”虚”だったからよかったですねえ、と笑顔の男の言葉に、じゃあもし若いホロウじゃなかったらどうだったんだとは怖くて聞けなかった。
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