半分に欠けた月が天空に浮かぶ夜に、闇から逃げる少年の姿があった。
何に追われているのか、世界を包む闇のせいで見えないが、少年の必死の形相からとても恐ろしいものだとわかる。けど、少年にすら、一体何が自分を追っているのかわかってはいなかった。
いつものように、家を出て、人の寄らぬ森を抜けた所にある湖で、一護は一人黙々と作業をしていた。透明度の高い湖は少し泳げば対岸に行けるような大きさ。そこにだけ発生する珍しい薬草を集め、湖の水で洗う。それが、薬を取り扱う父から託された一護の仕事であった。
簡単な作業に思えるが、その薬草を見つけ、摘むのには普通の人間には無理といってもいい。確かに存在しているその薬草は、けれど決して人にみつからぬようにひっそりと影の世界に生えているからだ。
一護達の住む世界とは、異なった場所に存在すると言われている世界の植物とも呼ばれ、次元の狭間を見ることの出来る者にしかその薬草を摘む事はできない。摘んだばかりの薬草は、まだこの世界で存在が確定していない為、少しでも目を離せばするりと手から零れ落ちてしまう。薬草として使用するにはそのままでは不可能なため、一度こちらの世界のモノである水に漬けることによって存在を固定させる。
ぐにゃりと、景色の中、空中に浮かぶ奇妙な切れ目。向こうの木々も見えている。けれど、そこには可笑しな落とし穴があるのだ。一護には、小さな頃からその次元の穴を見分ける能力が備わっていた。一護は何も覚えていないのだが、何もない場所を指差して、”穴が開いている”と両親に伝えていたらしい。一護の母もその能力を有しており、そのお陰か、父の薬は飛ぶように売れ、遠い都にまで名が届いていた。けれど、父も母も決して奢ることなく、その商法を変える事はなかった。小さな、都から離れた町で、こじんまりとして家で商いをする両親が、一護は大好きだった。
母が病気で無くなった後、薬草を見つける仕事を一護が受け継いだ後も、父の商法は変わることなく、細々としたものだった。本来は薬屋というより、医師である父は随分と豪快な性格の持ち主だ。相手がどんなに高い身分の者であっても、決して優先はしない。重病患者が先だと、伯爵を押し退ける様は、見ていて気持がよかったと、常連のおじさんが言った。
あと、本人からではなく近所の人に聞いた話だと、どうやら父は信じられないことにとある貴族の出らしい。噂なので、確かなのかは知らないが、別に一護は気にはしなかった。一護の父は、小さな田舎町でひっそりと医者を営む男なのだ。貴族の男だった父など、一護は知らないし、知る必要もない。毎朝妹に起され、薬草をとりに行き父の手伝いをできる事が一護には全てだった。
夜になると、途端この世界は様子を一変させる。
昼間は人と、動物の時間だが、陽が沈めば闇に潜むモノ達の時間だ。
霊魂が外をふらつき、夜の化身である狼が活動を開始する。
都は城壁に守られているため、夜になっても開いてる店もあるし、人も出歩くことが出来るのだが、一護の住むような小さな寂れた町ではそうもいかない。辺りが暗くなると、決して皆外に出ようとしない。牛も鳥も全部納屋に入れて陽が昇まで待つ。夜に出歩けば生きて帰れる保障の無いこの世界を、当たり前のように人々は受け入れ、生活してきた。
一護が花を摘みに出る時間は、陽が暮れはじめた頃。夕焼けの中にその花はほんの一時だけ、姿を現す。時間は短い。だから欲張って摘まないで、ほんの数量で帰路へ着く。珍しい万能の薬だが、自分の命と比べるものではない。
その日も、一護は陽が傾き始めた頃に出かけ、昨日目星をつけておいた場所で花が現れるのを待っていた。緑が濃いこの森は、外からみると随分と鬱蒼として恐ろしげに見えるが、足を踏み入れ、木漏れ日を感じている一護は恐ろしいよりも、温かいものを感じている。小動物も多く、綺麗な花も咲く。湖の周辺は特に様々な動植物が密集し、なんともいえぬ、美しい風景をつくっていた。
花が現れるまでは時間がまだある。一護は靴を脱ぎ、ズボンの裾を上げ、足を湖に浸けた。暖かな風を浴びながら、森の中を歩いてきた為に汗ばんだ足をひんやりとした湖で冷やし、時が来るのを待つ。一護はこの時間が好きだった。
花を摘み、そろそろ陽が沈みかけたなと帰りの支度をする。
湖の水で浸した花はひんやりと冷気を持ち、一護の手から体温を奪う。
なるべく肌に触れるように、皮袋に入れ肩から紐を下げる。
ふと、耳に聞きなれぬ音を聞いた。
何かの泣き声と、木が折れるような甲高い音。
空耳というほど小さくなく、かといって確信がもてるほどはっきりとした音でなく。訝しげに、耳を澄ませばもう一度、まるで子供が泣いているような声と、やはり木が倒れ、葉が地に擦れる音が聞こえた。子供が森に迷い込んでいるのかと、思った時にはその音源の方へと駆け出していた。
この森は、一護にとってはそれほど怖い場所ではないが、他人――森に初めて足を踏み入れたものにとっては生死に関わる場である。昼間にも大きな動物はいる。それらの中には凶暴なものもいるし、人を襲うものだっているのだ。森を歩きなれた一護には、その動物たちに会わずにすむ道を知っているし、もし万が一出会ってしまっても逃げる術も知っている。しかし、それ以外の人間にとって、この森の中でそれらに会う事は恐怖でしかない。
息を切らせて、声のした方向へと走る。段々と、近づいてきたのか声と、音が大きくなる。そこで、一護は突然足を止めた。何か。何かひっかかる。頭の中で、警報がけたたましく鳴っている。これは違う、と。
子供の甲高い声。
木の倒れる音。
獣の声がしない。
先程よりも、近く聞こえる高い悲鳴に、足が動く。体を急かすように足が動く。
さっきとは逆の方向へ走り出した瞬間、声の主の姿が視界に入った。
白い。大きくて、白い生き物だった。
人のように2足で立っている。上半身が以上に大きく、その上には大きな仮面があった。目、だろうか。丸い穴は空白で、口元は頬まで裂け歯が剥き出しになっている。ゆっくりとした動作で、一護の姿を視界に納めたソレは、にいっと、巨大な口を細め笑みの形を作った。背筋を駆け上がる悪寒に、一護は死に物狂いでソレから逃げた。
背後で、子供のように甲高い咆哮を、ソレがあげた。
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