1、カラス
ぼんやりと、視界の隅にいつもいる。
きちんと見たことはない。きちんと、見れたことはない。ふっと、一護の視界に影を見せ、そちらの方向に視点を合わせても、もう遅い。そこには残像さえ残ってはおらず、影だけが一護の網膜に焼き付いている。ただ、黒い影が視界の隅にいる。


多分、生者ではない。かといって、死者、とも言えない。そっと、自分の瞼を指でなぞる。この目は今、この時を生きているもの達だけでなく、過去に生きていたもの達をも映す、厄介な品物だ。気がついた時には、彼らはいつもそこにいた。ただ、皆が見えていないだけで、いつもいる。


幼少時、彼らを指差す自分を、母はやさしく戒めた。指を向けてはいけない。目を、見詰めてはいけない。存在を、見つけてはいけない。してはいけなことばかりを言う母を、珍しく思い、そして変に思った。でも、その時の一護には母が全てだった。世界だった。だから、言いたいことはあったが、母の言う通りに、一護は彼らをなるべく見ないようにした。そうすれば、彼らも近寄ってこないし、回りの人たちも一護を不気味がらないのだと、暫くして理解した。



黒い影が見えるようになったのは、母が亡くなった後だ。綺麗な、何の花かは知らないけれど、白い花が咲いていた。母が亡くなって、まだ日が経っていないあの日。ふわりと、風に服の裾を捉えられた人影が見えて、なんとなしに目で追った。走っている風には見えなかった。動いているようにも見えなかったのに。だけど、一護の視界にその人影は入らなかった。

あの頃の自分は、ふわりふわりと世界を漂っているだけで。それが一体何なのか、気にも止めなかった。ただ、母がもういない事ばかりが頭を占めていた。







それから、頻繁に一護の視界に僅かばかり入るようにその影は出てきた。
学校にも、通学路にも。唯一見ないのは、家の中だけ。一護は不思議と、それをあまり怖いものとは思わなかった。むしろ、ああ、またいたと、口元を笑みの形にしている自分がいた。小さな頃からずっと見てきた黒い影。それは、段々とはっきりとした形を持ち、今では黒い、コートのような長い服の裾だということもわかった。最近は、黒い裾以外に、白に近い黄が混じった髪も見えるようになり。
きっと、後何年かしたら見えるようになるだろうか。
もしかしたら、他の霊のように話もできるかもしれない。触れるかもしれない。
こんな事を望んでいる自分に、呆れた笑いが込み上げてくる。何を、期待しているのだろう。彼らはこちらの意思などお構いなしに、心など知らぬように出たり現れたりするのだ。一護の気を引いて、こんなに長く心の隅にひっかかって。もしかしたら、全身を見る前にあれはいなくなってしまうかもしれない。それは、少し悲しいことだけど、すごく悲しいことだけど。少しだけ、安堵するんだろうな。






雲一つない空、というのはこういう事かと、真っ暗な闇にぽっかり浮かぶ月を見上げた。生暖かい風が、少しあけた窓の隙間から一護の頬を掠める。湿気の多い季節だけど、夜の風は心地よい。
母の命日を過ぎれば、後は暑い夏が来るばかり。
ぼんやりと、月を見上げてみれば、視界の隅に闇より暗い、服の裾。え、と思わず視線で追えば。隣の屋根に、黒い黒い服を纏った一人の男。ふらりと、誘われるままに窓を開ける。

初めて、全身を見た。初めて、見詰めてもいなくならなかった。
初めて、男だと知った。
いつも性別を判断できるほど影は視界に入っていてはくれなかったから。じっと、こちらを見詰めてくる男の瞳が、猫のようにキラリと光った。ふわりと、風を感じると同じに、男が一護の部屋にするりと入ってきた。飛んでいる姿は、まるでカラスのようで。人ではないのだなと、改めて認識した。音もたてずに部屋に降り立った男は一護よりも背が高かった。あの僅かな窓の隙間をどうやって通ったのだろうか。
上半身を捻った姿で男を見詰める一護に、黒い服の男は、無表情のまま、じっと一護を見詰め返してくる。長い前髪に、目がほとんど隠れてしまっているけど、すっと通った鼻筋と、薄い唇に、男が秀麗な顔をしているとわかる。初めてみる顔だ。だけど、妙に懐かしい。男の目が、細くなる。何かを、懐かしむような、もっとよく見ようとするように。
生きたものではない。けど、死者のような影もない。
正体不明としかいいようのない男に、一護は一歩足を踏み出した。





いつも、視界の隅にしか存在しなかった黒い影。
その存在を知りながら、見ることも叶わず、知ることも叶わず。
もしかしたら、ずっと焦がれていたのかもしれない。
幼い頃から、ずっと。
それは、まるで。
恋に焦がれているようだと、男と視線を交えながら一護は思った。







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