彼女は幼馴染である男が最近妙に色気づいてきているような気がしてならない。
小さな頃からの付き合いだが、幼馴染――浦原が服装やら見た目やらを気にしているのを見たのは初めてだ。
夜一がどんなに口を酸っぱくしても、暴力に訴えてみても、「別にアタシのことなんだからいいじゃないっスか!」と言い放っていた男が、だ。まさか自分にナイショでこそこそとファッション雑誌なるものを買っていたなどと。
「夜一サン?どうしたんスか?」
はいお酒、と渡された缶ビールを、とりあえず一口ぐびりを煽った所で、隣に座るとしていた男の胸倉を掴んだ。ぐ、と蛙が潰れたような音がしたが、気にする事無く引き寄せる。
じい、と眼鏡越しの男の眼を睨みつける。
色素の薄い男ではあったが、こちらを恐る恐る見返す翠の瞳の、その透き通る様は中々夜一は気に入っている。バカな男だ。情けない男だ。というか、男として真っ当に生きていないような男だ。それでも、この男の瞳は小さな頃から変わらない。だから夜一は駄目人間と言われているような男と、今も共にいるのだ。
唐突に睨みつけてきた夜一に、ヒ、と呼吸を飲み込んで誰が見ても怯えていますという様をかもし出す男は、やはり変わらぬ翠の目、だ。だけどうっすらと。うっすらとではあるが、夜一の何かが男の変化を嗅ぎ取っている。
人が変わる理由なぞ、そう多くはない。そして、この男がそうした行動を起こすきっかけなど、夜一には容易に知れた。
「お主、恋をしておるな?」
にやり、口の端を上げて問い掛ければ、男は簡単に罠に引っかかった。
「で、相手は誰じゃ?年上か?年下か?」
「…だ、だから、別にそんなのじゃないですって…」
「嘘をつけ。そんな言い訳でこの儂を誤魔化せると思っておるのか?」
あん?と顎を突き出せばひい、と頭を抱えてびくりと体を震わせる浦原に、一瞬、もしや儂の思い違いかとも思ったが、自分の感覚を信じている夜一はそれは有り得ん、とその考えを即座に切り捨てた。
「証拠は挙がっておるのじゃ。ほれ、なんじゃこれは。メンズ、」
「うわあ!か、勝手に人の部屋漁るの止めてくださいって何度云ったら…!」
「何を今更…おぬしのおかず本の隠し場所くらい当の昔に把握しておるわ」
じゃから何も隠すものはないのだと教えてやれば、男のただでさえ白い顔が紙のように白くなった。いや、白さを通り越して青くなっている。
「なんだったら場所も教えてやろうか?ビデオデッキの裏にある棚の、」
「うわあああ!!」
今度は顔を真赤にして耳を抑えた幼馴染を見て、アホかと、鼻で笑った。少し涙目になっている様に満足して、手にしたビールを一気に煽る。この缶の冷たさと、なんとも味気ない喉ごしが意外と夜一は気に入っていて、それを浦原は知っているから、あまり酒を好まないくせにいつも冷蔵庫にはビールが数本入っているのだ。それくらい、夜一と浦原の仲は近しい。
というのに、一番面白そうな話題を黙っているのは何事だと、夜一は拗ねたような気持ちを抱きつつも、ほれ話せ話せと顔を真赤にしている男に詰め寄った。
「…その、アタシにもよくわからないんスけど…」
「何がじゃ?」
「す、好き…なのかなあ!って…その…」
よほど恥ずかしいのか、声の音量が所々可笑しい。つまりは、それくらい動揺しているのだろう。
夜一は思う。こやつは本気でアホだと。
ぐびり、と新しい缶を開けてビールで喉を潤わせてから、夜一は思った事を隠しもせずに言い放つ。
「お主はアホじゃのう…」
ずず、と音を立ててビールを飲みながらしみじみと云えば、浦原はかくりと首を伏せた。いじいじと指でささくれた畳を弄る様は情けないの一言だ。
「そんな…夜一サン酷いっス…」
「アホをアホと云って何が悪い。自分の恋心に気づいておらぬ奴にとやかく云われとうないわ」
「恋…」
「…いい歳をして頬を染めるな。気色悪いだけじゃ」
「…これって、恋ってやつなんスかねぇ…」
ぼんやりと、枕を抱きしめて呟く男の姿は酷く奇怪ではあったが、はあ、と熱の篭った吐息を吐き出しているのを見ると、どうやら夜一の勘は本当に当たったらしい。自分で言っておいて、なんだが、正直、凄く意外だ。
この男が。浦原が恋。
胡坐を掻き、抱えた枕に顎を埋めてむにゃむにゃしてる男が、恋。
じい、とその様を缶ビールをぐびぐびを飲みながら見る。ここまでその単語が似合わない男も珍しい気がする。ある意味希少生物だ。
浦原は、身長と学歴だけを聞けばなかなかの物だ。平均よりも高い身長も、狭き門と言われる大学をストレートで通った事も、男としては結構なプラスのステータスになると思うのだが、この男はそのどちらも活用できていない。
身長は高いのだが、ひょろりとした体つきのせいか、全体的に貧弱だ。それに何時の頃からか癖になっている猫背のせいで歩く姿は不恰好以外の何物でもない。学生時代は遊ぶことなどせずに家に篭っていたせいか、分厚い眼鏡越しの目は瞼が重そうにかかっている。
ぼさぼさの髪にうっすら生えた無精ひげ。そしてよれた服。
なんというか、全体的によれている。
それが浦原という男だ。
見目を気にしないせいか、消極的すぎる性格のせいか、彼女ができた事はおろか、好きな人ができたことすらないというのだから、もういっそ清々しいとさえ夜一は思っている。周りの友人たちが結婚をしていく中、浦原だけは結婚できないと専ら話題に上っていることさえ、この幼馴染は知らないだろう。
しかし、夜一は案外、この男は恋愛に向いているのではと考えている。男の恋人は、一生愛されて生きていくだろうな、と少しばかり羨ましくさえ思う。夜一の想像でしかない、全く根拠のない考えではあったが、あながち間違いでは無い。
浦原の想い人に、少しばかり複雑な思いを抱いても、幼馴染という立場上少しは許して欲しいものだ。
「で、どういった相手じゃ?」
二本目の缶を飲みきり、新しく差し出された缶のプルトップを引く。ぷしゅ、とはじける音に気分を良くした夜一は、ほれほれ、教えてみろと浦原に詰め寄るが、相手は中々に防御が固かった。
「なんで夜一サンに言わなくちゃいけないんスか…やですよ。またからかうに決まってる…」
「そこまで儂の事をわかっていて、教えぬとはいい度胸じゃのう。今だけ恥ずかしい思いをするのと、後々酷い思いをするのではどちらが良い?」
「それ脅しじゃないッスか…」
ふい、と機嫌を損ねた様子で夜一から視線を外す浦原を、内心驚きながら見詰める。拗ねたように唇を尖らせてもこれっぽっちも可愛くはないのだが、やはり、おや、と思う。あの浦原が夜一に逆らっている。
どうってことない、ちょっとした反抗ではあるが、そんな浦原を久方ぶりに見た夜一はひょい、と眉を上げた。これは、本格的に聞き出したくなってきた。
「…シルバーの、チェーンを持って帰ったそうじゃの?」
「?!」
開店準備に追われている最中、気がつけばいなくなっていた幼馴染の行方の市丸に聞いた折、手に入れた情報を提示する。その時はどんな気分転換だと首を傾げたものだったが、今考えるとあの時からこの男の挙動不審は始まっていたかもしらない。
「随分と似合わぬものを、と思ったが…」
「…」
「お主の想い人、年下じゃな」
「な、なんのことッスか…!?」
声が裏返っている。ここまで丸分りの反応を返されると気分はいいが、どうにも加虐心も刺激されてしまうのだから、困ったものだ。傍目にはとても困ったようには見えない、それはそれは楽しそうな笑顔を夜一は浮かべた。
「それも随分と年下か…もしや十代か?」
「ち、違います!この間二十歳になったって…!」
は、と口を抑える男に、夜一は笑いを通り越して呆れてしまった。ちょろい、ちょろすぎる。
かくりと、項垂れた男にようやく観念したかと、先ほど手にしたファッション雑誌を男の膝元に投げた。慌ててそれを隠そうとするが、本当に今更、だ。
「二十歳とはな…随分と若い想い人じゃの」
「…ま、まだその…こ、恋だとは…」
往生際悪くまごまごと言い逃れしようとする男に、流石に夜一もいい加減切れる。ええい鬱陶しい!と傍にあったゲーム雑誌を叩きつける勢いで投げつけた。強い手応えの後、身悶える男の姿はあえて無視する。
「しかし…どこで知り合ったんじゃ?二十歳なぞ、おぬしの職場にもそんなに若いものはおらんじゃろうに」
ぷらぷらと新たにあけた缶を振り子のように揺らしながら、どうじゃ、と指差せばまあ、そうですねと、意外と冷静な声が返ってきた。ん?と視線を浦原に投げかけてみれば、先ほどまでの泣き出しそうな顔では無く、真剣な眼差しで手にしたファッション雑誌を見詰めていた。
「若い子って…やっぱり格好いい方がいいですよねえ…」
「まあ…人によって違うとは思うが、大抵はそうじゃのう。なんじゃ、喜助。想い人はお主のある意味ナイスセンスな服装に文句を言ってきたのか?」
「いえ、その、特に何も云われた事はないですけど…」
ぼそぼそと語尾になるにつれて小さくなる喋り方は、自分でも自身がないからだろう。肩を落とした浦原を見詰めながら、ふむ、と幼馴染の想い人を想像してみる。
「のう、喜助。お主の想い人はどんな女じゃ?」
二十歳、だと男は言っていた。一回りも歳の離れた相手を好きになるとは意外であったが、若く、浦原を振り回すような相手の方が好都合かもしれない。しかし、気になるのは浦原が相手に送ったというシルバーチェーンだ。
『仮面』は男性向けのブランドで、女性に向けて作られている商品は極僅かだ。女性向も、どちらかというとスカートよりもパンツを好むような、ピンクよりも黒を選ぶような客層が狙いだ。浦原が貰っていったというチェーンは、男性向けに作られている。女性がつけないこともないだろうが…。
「…あの、夜一サン」
ううん、と相手の女を想像してみるが、どうにも上手く掴めない。一体どんな女に惚れこんだのだ、この男は。
「夜一サーン」
「なんじゃ、煩いのう…」
「聞いてきたのそっちじゃないッスか…」
結局、想像力だけではどうにもならなかったので、降参の形で両手を挙げた夜一を浦原は不思議そうな顔で見つめてくる。いいからさっさと話せとばかりに手を振れば、はあ、と納得していません、と言っているような表情を浮かべながらも浦原は頷いてみせた。
「あの、女の人じゃないです」
「……何?」
ぴくりと夜一の形の良い眉毛が跳ね上がる。
しかし、浦原はそれに気づく事無く、人差し指を弄りながら恥ずかしそうに想い人について語り始めた。
「オレンジ色の髪で、最初染めてるって思ってたんスけど、よく見たら自毛がその色みたいで…髪の毛立ててるから、なんかひよこみたいで可愛いんスよ。背はアタシよりは低いッス。だけど凄い喧嘩が強くて…」
どこか幸せそうに語るその姿は、丸きり好いた相手を語る姿そのものなのだが、それをからかう余裕など今の夜一には無い。先ほど、浦原が云った言葉がぐるぐると頭を巡っている。女でないならば、つまりそれは。
ちょっと前までは頑なに語ろうとしなかったくせに、突然饒舌になった幼馴染に夜一は待て、と言い放つ。は、と口を噤んだ浦原には何か思う処があるのだろうが、夜一の脳内はそれどころではない。
「ちょっと待て、喜助。…相手は男、なのか?」
「あ、はい…。やっぱ変ですかね…」
目に見えて消沈している幼馴染に、夜一はいや、と項垂れている男の肩を掴んで、再度同じ質問をした。お主が好いた相手は、男なのか、と。肩に込められた力だとか、真っ直ぐに見詰めてくる夜一の視線に、浦原もつられたのか、ごくりと唾を飲み込んだ後、神妙な顔ではい、と頷いた。そして、幼馴染の反応を見ようと顔を上げてしまった、と思った。失念していた。
「そうか…!男か!なんじゃ!それならそうともっとはよう云えばよいものを…!!!」
でかした!と云わんばかりの満面の笑みで浦原を褒める夜一が、確かボーイズラブと呼ばれる本を愛読していた事を。
面白い人だなあ、というのが、一護が浦原に抱いた第一印象だ。
顔を覚えていない状態ではあったが、自分を助けてくれらという恩があるせいで、最初から一護の浦原への印象はいいものではあった。礼を言っておけ、と父親に云われてはいたが、正直面倒くさいと思っていたので、電話だけで済ませてしまおうと軽い気持ちで名刺に書かれていた番号へ電話を掛けたというのに、気がつけば会う日程まで決めていた。
こんなガキに随分丁寧な口調だな、と思っていたけれど、どうやらそれが地の口調なのだと知って変な人だと思った。
初めて会った時。
殆ど記憶に無い人間をこちらから探し出すのは難しいだろうと、相手から声をかけてもらうのを期待していた。この髪はよくも悪くもとにかく目立つ。こういう時は役に立つんだけど、大抵の場合は厄介ごとを一護に齎してくれる。先日の、喧嘩の時だってそうだったのだ。
その髪が気に食わないのだと言われても、はいそうですかと大人しく引き下がる性格ではないのが主な原因だとは、一護は気づいていない。この髪が目立つからあいつらが寄って来るのだと思っている。
あまり好ましくは思っていなくとも、これが目印になるだろう、と電話の際、浦原に自分の髪の事を告げた。すげー目立つ色してるから、わかると思う。そんな感じだったと思うが、ああ、と電話越し、相手が納得した後に発した言葉は良く覚えている。
「ああそうですね」
ふ、と漏れた吐息がすぐ近くで聞こえた。
「綺麗な色、ですよね」
分ると思います、と。
自信無さそうな口調で、大丈夫ですと囁く男の声が酷く嬉しかった。
ぱちん、と携帯を閉じる。見たい映画があるんだと、誘いの言葉をメールで綴りながらもう片方の手ではまだ真新しいチェーンを弄くる。なんとなく手癖みたいになったその動作に、何そんな舞い上がってんだ、オレ。と心の内で苦笑する。
講義が終わり、次の教室に向かう最中に送ったメールの返事が返ってくるのは恐らく夕方、男の仕事が終った頃だろう。最近少しトラブル続きで忙しいのだと、困ったような顔で頭を掻いていた男の姿を思い出す。昼食はきちんと取れただろうかと、浦原の元より細いラインがさらにやつれた感を増したのを気に掛けたところで、一護、と後ろから声を掛けられた。
「チャド、何。どした?」
ぬい、と一護の横に並んだ上背のある男を見上げる。平均身長、というより日本人とは到底思えない巨躯の男は一護の中学の時からの友人だ。愛称であるチャドと、皆に呼ばれているせいで教授までもチャドの本名が茶渡だとは覚えていない。
「次、休講だそうだ」
「まじで?またかよ…」
確か先週もこの講義は休みだった。ぽかりと開いた時間に、さてどうしようかと悩む。帰ってしまおうかとも思ったが、夕方に取っている授業は必修だ。かといって一時間半、一体どこで暇を潰すか。チャドも同じ授業を取っていたから、近くのレコード屋にでも行くかなと振り返ったら、ちゃり、と腰に着けていたチェーンを引っ張られた。
チャドにとっては軽く力を込めたつもりなのだがろうが、一護にしたらたまらない。ぐん、と後ろに引っ張られて転びそうになるのを何回かたたらを踏んで堪える。こんな事はよくあることなので、怒りはしないが、文句は言う。
「チャド、引っ張んなよ」
「ム、すまん…」
「ん」
わかればいい、と頷いて、改めてチャドに向き合う。で、何なのだと聞けば、チャドは一護の腰についているチェーンを指差してどうしたんだと逆に尋ねてきた。指摘され、ああ、となるべくなんでもない風に答える。気をつけてないと頬が弛んでしまいそうだった。
「貰ったんだ」
声さえも、弾みそうになる。それくらいこの貰い物は一護を喜ばせたし、なにより贈り主がコレを渡してきた時の顔と云ったら。
「ム、良かったな」
それ、欲しがっていたやつだろうとチャドに微笑まれて、浮かれている自分が恥ずかしかったが、おう、と素直に応じた。長い付き合いになるこの友人に、隠し事をする気はないし、してもばれるだけなのだ。それだったら素直にさらけだしてしまえばいい。
「変な人でさぁ…すげえ面白いんだ」
一護を黒崎サン、とどこか怯えた風に呼ぶ男に、何度さんづけは止めて下さいと云っただろうか。敬語も止めてくださいと云い続けて、結局敬語を止めたのは一護の方だった。一回り以上も歳上の相手にため口なんて、と躊躇うには男が随分と卑屈な性格すぎた。若干ブチ切れ気味に喋ってみたら、そっちのほうがお互いしっくりくるようで、今では時折浦原ぁ、と呼び捨てさえるすようになってしまった。
気弱で、猫背で。だけど一護が名前を呼ぶと嬉しそうに笑う。流石の一護でも、こうあからさまにされれば、わかる。
浦原は、恐らく自分の事が。
「一護は、その人の事が好きなのか?」
ぐだぐだと、レコード屋への道を歩きながら浦原の事を話していた。それまで黙って聞いていたチャドの云った言葉に、一護は驚いて目を丸くするが、すぐに小さく笑ってみせる。
「オレより全然年上なんだぜ?」
「ああ」
「いつも名前呼ぶとまず怯えるんだぜ?]
「うん」
「変な敬語抜けないし、ちょっとダサいし」
「ム、」
「…そうだなあ、嫌いじゃねえよ」
浦原の事は嫌いじゃない。むしろ好きな方に分類される。だけど、そう云った意味の好きだと聞かれれば少し答えを逡巡してしまう。ほとんど確信はしているが、浦原は一護をそうした意味で好きなのだと、思う。電話をする度にはい、と声を震わせて出るのに、話が乗ってくると凄く楽しそうに喋り始める。自分の好きな話になると途端に饒舌になる浦原に呆れながら一護は相槌役に徹する。
これ、どうぞ、とチェーンを差し出してきた時。顔を真赤にして、ふるふると震えてさえいた浦原の姿を思い出して今でも笑いが込上げてくる。一護がチェーンをつけているのを見るたびに嬉しそうに微笑む顔は、一回り以上も年上だというのに、可愛いとさえ思う。長い前髪と、眼鏡のせいでしっかりと表情は見えないけれど、時折こちらを見てくる翠の目は結構好きだ。
「…嫌いじゃ、ねえなぁ」
ほつりと呟いた言葉に、チャドは薄っすらと笑ってそうかと答えた。
乱菊は今までに無い真剣さを持って、目の前にある髪を切っていた。鋏が髪を切る度に立てる音に、髪の持ち主がびくりと震えるのを叱り付けながらひたすらに色素の薄い、柔らかな髪をカットしていく。今回初めて彼の髪を触ったが、予想していたよりも柔らかな感触にへえ、と感嘆の声を上げた。
もっとがさがさときしついている感触を想像していた。毛先にいくにつれて癖が出てくる髪をいじくりながら、ふむ、と後ろのソファで雑誌を読んでいる夜一に声を掛ける。
「夜一さーん。あんまいじらないほうがいいかもしれなーい」
ん、と顔を上げた夜一の顔は少し眠たげに瞼が下がっていた。自分で連れてきた癖に、と思いながらも口には出さない。
「まあ、少し整える程度で構わんじゃろう。その髪の色じゃ、あまり切りすぎると悲惨な事になりかねんからの」
「失礼ですね、そんなミスしませんよ」
もう、と苛立ちを含んだまま髪に触れれば、余分な力が入っていたのか痛い!と悲痛な声が聞こえてきた。あら、と口を抑えると後ろからけらけらとほれみたことか、という笑い声。
「浦原さんごめーん。痛かった?」
慌てて男の顔を後ろから覗き込めば、浦原はぎょっとした表情を浮かべた後、勢いよく乱菊から顔を背けた。その反応に慣れているとはいえ、そこまで露骨にされると面白くない。にこり、とサービススマイルを浮かべてぐい、と胸を男の肩に押し付けるように顔を近づけた。髪をピンで留めているせいで露になった形のいい耳に、吐息を吹き込むように「ご・め・ん」と囁いた。
「うひゃあ!!」
びくん、と浦原は大きく体を振るわせる。椅子ががたりと大きな音を立てるほどのリアクションを取った浦原に、乱菊は耐え切れずにぶふ、と噴出した。後ろでげらげらと遠慮なく笑っている声も聞こえる。
「ま、まつもとさん…!」
悲壮な声で乱菊の名前を呼ぶ男に、ごめんごめん、と涙目で謝って、さて再会しますかと再び鋏を手に取った。
松本乱菊の元へ夜一が浦原を引き摺るように連れてきたのは、乱菊が仕事を終え、ちょっと休憩、と煙草を手に取ったところだった。引き摺ると言う言葉のままに連れてこられた浦原は、夜一に話を聞いていなかったのか、乱菊を見つけた時にあれ?と不思議そうな顔をしていた。今晩は、と微笑んで挨拶を交わしたいいが、乱菊も何も聞いていない。
どういう事です?と目で夜一に問い掛ければ、猫のような金目がきらりと楽しげに光った。何か企んでいるな、と気づきはしたが、それを素直に浦原に教えることはしない。未だ状況が飲み込めていない浦原を連れて、夜一は少し場所を借りたい、と片付けを始めている店内へと入って行った。
慌てて手にした煙草を箱に戻し、わあ、と足を縺れさせている浦原の後をついて行く。閉店後に訪れた客に、他のスタッフが何だと顔を向けるが、それが夜一だと知ると「ああまたか」と当たり前のように作業に戻っていく。
どかり、投げ出されるように椅子に座られた浦原は居心地悪そうな表情できょろきょろと、落ち着かない感じで辺りを見回している。挙動不審な動きを夜一に叩かれて注意されていたが、どうにも落ち着きが悪いらしい。
「夜一さーん、どしたんですかぁ?」
椅子から逃げようとする浦原を押さえ込んでいる友人にくすくすと笑いながら話かける。ついでに椅子の前、壁に備え付けてある鏡越しに浦原に流し目を送ればか、っと音がしそうなほど顔を染めて下を向いてしまった。相変わらず年上とは思えない初心さだ。
「なぁに、ちょっとこやつの頭を小綺麗にして貰いたいのじゃ」
「ちょ、何言ってるんスか…!そんなの聞いてないですよ!」
つんつん、と浦原の髪を引っ張る夜一に、本当に聞かされていなかったのだろう、浦原が慌てたように頭を振る。ぱさぱさ、とその度に揺れる髪に痛んでるわねぇ、と思わず手が伸びた。
「でも、浦原さん小綺麗にしてどうするんですか?」
一応、流れ作業で浦原の首にタオルを巻き、体を覆うカバーを掛ける。そこまでされれば逃げる気も失せるのか、大人しく椅子に座っている浦原に夜一は満足そうに頷いてから乱菊へと向き直った。
「いやの…こやつに好いた相手ができてな」
「えぇ…まぢですか?」
「まぢじゃ」
しかものう、とにやにやと楽しくて仕方がないという顔で手招きをされ、話の種の本人を前にしながら内緒話をするように耳を近づける。その間も浦原は落ちつか無そうにぐずぐずと体を動かしていたが、耳元で囁かれるように教えられた内容に、乱菊は思わず「浦原さん!」と叫んだ。次いで、がし、と後ろから浦原の肩を掴む。
「そういうことならば…!松本乱菊、持てる力をフルに使ってその恋、お手伝いさせていただきます!」
「え、あの…」
興奮した様子の乱菊に浦原が完全に引いた様子で、鏡越しに両手を挙げて首を横に振るというお断りします、というポーズを取ってはいたが、構うものかと乱菊は仕事に取り掛かった。
「松本、よくぞ云った!では後は頼んだぞ」
夜一は一仕事終えたとばかりに備え付けのソファにどかりと腰を下ろし、横の棚に置いてある雑誌を手に取っている。任せてください!と鼻息荒く、袖を巻くった乱菊に浦原はそんな、と悲痛な叫びを上げた。
どうにも落ち着かない。と、松本に切られた髪に手が伸びる。髪すら切るのは久し振りだったというのに、さらにつけられた整髪料の匂いが鼻にむず痒いのだ。髪を切る前には眼鏡屋に連れて行かれ、これを買えと押し付けられた眼鏡はどうにも薄くて落ち着かない。前の方が落ち着くんですと訴えても聞いては貰えず、結局押し切られる形でチタン製の細いフレームを買わされてしまった。頼りない感覚がどうにも苦手だ。
落ち着かない、と眼鏡と髪を弄くりながらの帰り道、ポケットに入れていた携帯が震えた。その震動に急かされるように慌てて携帯を手に取る。メール受信のマークを見て、ついつい顔がにやけてしまうのは仕方がない。
昼過ぎ、ちょっと休憩と逃げ込んだトイレでメールが届いているのに気がついた。浦原にメールを送ってくる相手は、最近では一人しかいない。逸る気持ちを押さえ、社内トイレの個室に入ってからメールを開く。
今度の土曜。
見たい映画があるんだけど
空いてる?
行数にすれば三行の、短いメールだが、そこに書かれている内容に浦原は思わずガッツポーズを取った。もしかしたら、声も出ていたかもしれない。一応、ドアをあけて外に誰もいない事を確認してから、もう一度メールを見る。土曜日に、映画。
誘いのメールを受け取る度に、ほっと溜息を吐き出すのが浦原の習慣になったのは、つい二ヶ月程前の事だ。
邂逅三度目、仕事帰りに偶然出会えた黒崎一護に、これ、と押し付けるように渡したアクセサリを黒崎はとても喜んだ。悪いです、と云われる前に貰い物だと告げ、自分には使い道が無い事を訴えれば、少し戸惑いつつも快く浦原からの贈り物を受け取ってくれた。
それだけで舞い上がりそうな気分だというのに、黒崎からまた会えないかというメールを貰ったのはその日の夜のことだ。嬉しすぎて、嬉しすぎて。布団に横になりながら何度も黒崎からのメールを見直して、はっとなった。どうやってメールを返せばいいのか、浦原にはわからなかったのだ。
勿論、返事はイエスなのだが、それをどうやってメールの文面で伝えればいいのか、さっぱりだった。困りに困り抜いて、やはり追い縋ったのは厄介な相手ではあるが頼りになる幼馴染だ。どうすればいいのだと電話をすれば、そんな事も自分でできないのかと怒られた。アホか、と云われた時点で、ああこれは「そんな事は自分で考えろ!」と云われるパターンかと肩を落としていた浦原だったが、その後に「こんなもんで良いじゃろう」と続いた言葉に大層驚いた。
なんとか夜一に手伝って貰い、少し遅れて返したメールに直に返事が返ってきた時には思わずもう一度夜一に電話をしてしまったくらいだ。その時は確かパソコンの周辺機器について聞きたいことがある、という内容だったと思うが、正直よく覚えていない。
夜一に報告しろ、と云われていたので一応電話はしたが、何を話したのかも覚えていない浦原は夜一にどうしようと泣きついてしまう程に落ち込んでいた。
きっともうメールなんて来ない。
そう思っていたのに、予想に反して黒崎からのメールはすぐに送られてきた。内容は、今日は楽しかったですまた一緒に飯でも食べに行きましょう云々…。それに喜んだのは、何故か浦原よりも夜一だった。
会う度に嫌われたらどうしよう、もう会ってくれないかもしれないと落ち込んでいた浦原が今日は楽しかったです、とメールを送れるようになるまで一ヶ月。こんな話していても面白くもなんともないだろう浦原を、その間黒崎は結構な頻度でメールを送ってきた。もしよかったら…と誘いのメールを送れるようになるまで二ヶ月かかった。
何故黒崎はメールをくれるのだろうと、首を傾げる浦原とは違い、夜一は何故かとても嬉しそうだ。最近では調子に乗ってきて黒崎とやらに会わせろとまで云ってきた。なんとか断り続けてはいるが、このままでは浦原の予定を調べて乗り込んできそうな勢いがある。
ばたん、とドアを後ろ手に閉じ、部屋に入るなり倒れるように布団へ横になった。先ほど送られてきたメールの内容を頭の中で反芻して、思わず笑いが漏れた。枕に伏せたまま笑ったせいで、実際は「ぶふ」というなんとも間抜けな笑いになったが、そんな事を気にする人間はここにはいない。
浦原さんもぜってー
好きだと思う。
昼間の映画への誘いメールへ、了承の返事を返した、その返事だ。
素っ気無いメールに、黒崎の憮然とした顔を思い出してしまう。浦原に敬語を使わなくなった黒崎は、表情豊かとまでは行かないが色んな顔を見せてくれるようになった。いつも怒ったような顔、不機嫌そうに寄せられた皺が普通の顔。嬉しさを少し押し隠して笑う癖に、怒った時に尖らせる唇とか、逸らされる目元だとか。
沢山の黒崎の表情を思い出せる事が嬉しくてたまらなかった。
黒崎のことを思い出すだけで、頬が温かくなる。メールを見る度に気分が舞い上がって、気持ちがいい。
こんな気持ちは初めてだったが、これが恋なら相手が黒崎で良かったと、幸せな気分で思った。黒崎を、好きになってよかったと思った。
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