ハッピーサンセット 02
こんなに緊張したのは、今の会社の入社試験以来かもしれない。
じくじくと痛みさえ感じ始める鼓動の激しさに、浦原は駅のホームのベンチで深く息を吸い込んだ。落ち着け、と言い聞かせては先ほどから繰り返している深呼吸は正直あまり役にはたっていない。けれど何もしないよりはマシだと思う。思いたい。
自分の前を電車がいくつも通り過ぎていく。手にした携帯で時刻を確認すれば、待ち合わせの時間まではあと僅か。
突然受けた電話でさえも上手く喋れなかったというのに、実際に本人を目の前にして上手く言葉を紡ぐ自身が浦原には全くなかった。それでも時計の針は進むし、浦原の胃はきりきりと痛みを訴えてくる。
ままよ、と気合を入れることさえ出来ずにふらりとベンチを立ち上がったはいいが、待ち合わせ場所に向かう足取りは、酷く重い。履きなれない革靴と、着慣れないスーツもあいまって浦原の気分は本人の思う処とは逆に下降の一途を辿り続ける。
無事かどうか。心配していた相手からの電話は、素直に『良かった』と思わず口にしてしまう程に安堵していたというのに。
ぎこち無い挨拶に、ぎこちない自己紹介を交わした後、見た目から想像していたよりも大分丁寧な口調で礼を告げてきた少年の名前は黒崎一護だという。随分可愛らしい名前だと思ったけれど、そうそう自分の思った事を口に出すことが苦手な浦原は、結局はそう思うだけに留まった。
そこからは、どういう会話を交わしたのか、浦原は覚えていない。気がつけば週末に会う予定になっていた。何故そうなったのか。通話を終えた後に襲ってきた「どうしよう」という戸惑いの波に攫われながらも、少年のぶっきらぼうな声が「お礼がしたい」と云っていたのは記憶していた。
実際にあって、お礼がしたいなんて。随分真面目な子だと思ったけれど、だからと云って素直に会って無事を確認、なんてできる質なんかじゃないのだ、浦原は。
ああ、どうしようどうしよう。ぐるぐると頭でこれからの事を予測立ててみようと思うけれど、きりきりと痛む胃に阻まれて上手くいかない。
どうして自分はこうなんだろうと、泣きたくさえなる。緊張にとことん弱い自分。幼い頃からその体質は変わっておらず、酷い時期には眩暈に襲われ意識を失ったこともしばしば。
そんな浦原を見かねて、幼馴染の少女が特訓だと云って無理矢理付き合わされた沢山のコンパで、さらにその体質は悪化した。流石に、悪いと思ったのか。彼女からそれ以降無理に誘われるような事は無くなった。
決められた場所で、決められた人間としか喋らないという、安穏とした生活を過ごして数年。
こんな事なら、電話を受けた時に断っておけばよかったと後悔しても後の祭り。
既に浦原は待ち合わせの場所にいるし、時計は少年が伝えてきた時刻を指し示している。月に一度の、会社内のスーツデイの今日。待ち合わせの日がその日だと気づいて、それならば少しはまともな社会人に見えるかもしれないと安堵の溜息を吐き出していたつい先ほどのまでの自分が羨ましくさえ思えてきた。
待ち合わせの場所は、最寄り駅の前に数年前に作られた広場の中。仕事帰りの人間が多く行き交うこの時間帯、ふらりと備え付けのベンチに座り込んだ浦原は詰めていた息を吐き出して項垂れた。
目印は、少年の持つオレンジ色。
相手も自分の髪が相当目立つ事は自覚しているのか、詳細な待ち合わせ場所は言わなかった。と、いうことは、こちらから黒崎一護に声を掛けなければいけない、という事で。
なんて声をかければいいんだろうと、頭を抱えそうになったところで、頭上から「あの、」と控えめな声。
え、と顔を上げれば、目にも眩しいオレンジ色。
座っている浦原を覗き込むように少し身を屈めている少年は、あの夜に浦原が抱え上げた黒崎一護だった。ぎりち、と、突き刺すような強い眼差しが印象に残っていたから、どこか戸惑いの色を含んで揺れる飴茶色の瞳を不思議に思って見つめていると、黒崎少年は眉間に皺を作りながら眉を下げるという高等技を使った。
「浦原サン、ですよね?」
はい、でも、ええ、でも無く。
浦原が発したのは「ッヒ」という喉が引き連れたようななんとも情けないものだった。



ふらふらと、なんとか家に辿り着き、鍵を開け、ドアを開けるとスーツが皺になるのも構わずに敷かれたままの布団へと倒れこんだ。ぺたりと布団の柔らかさを無くした薄さに酷く気分が落ち着く。はー、と肺の奥に溜めていた息を全て吐き出せば、ほつり、と疲れた、という言葉も漏れてきた。
このままでは唯一持っているスーツが皺だらけになってしまうと、わかっていても体は動いてくれない。会社に入る前に、と幼馴染に連れて行かれた店で買った唯一のスーツ。本当は近所の大型店で売っている社会人三点セットという、値段の手ごろなものを買う予定だったのに、あの幼馴染は「折角の一張羅をなんと心得る!」と浦原を叱り付けた。服に拘りを持たない浦原に、どうやら彼女は前から思う思うところがあったようで、引き摺られるように連れていかれた先は自分ひとりでは決して入れないような店構え。
どうせ金はあるのだろうと、引っ手繰られた財布を幼馴染に握られた浦原に勝ち目は無く、彼女と店員に言われるがままに買ったスーツは、どうやら今日会った少年にとっては目を輝かせるようなものだったようだ。
布団に伏せたまま、自分の着ているスーツを見る。シンプルな形で、色も地味なもの。浦原としては、夜一サンの選んだものにしてはまともだと思うくらいで別段どうこう思い入れがあるわけでもないのだが、スーツのタグに書かれたブランド名が問題だった。
思い出すのは、あの夜傷だらけだった少年の姿と、先ほど見たきらきらと瞳を輝かせて浦原のスーツに釘付けだった少年の姿。
黒崎一護という少年は、弾んだ声で浦原のスーツを指差して云った。
「そのスーツ、『仮面』ですよね…!」
なんとか、痛む胃を抑えてしどろもどろに改めて自己紹介をした後、うずうずと耐え切れないとばかりに詰め寄られて、再び口から漏れたのは「ッヒ」という喉が引き連れた音。そんな自分の姿が情けなくて、思わず隠すように口を手で抑えてみたけれど、目の前の少年は浦原のスーツに夢中らしい。
たじろいだ浦原の様子に気づかないまま、黒崎少年は言うなれば「羨ましそう」な目でスーツを見ている。そんな目で見られる覚えはない浦原は、ただ困惑するばかり。
そんな浦原が気がついたのか、黒崎は慌てた様子で「すみません」と謝った。謝られる覚えもない浦原は、ますます困惑の色をその顔に浮かべる。
「いきなりじろじろ見ちゃって…」
「い、いえ別に…か、構いませんよ…?」
言葉の最後が疑問系で締めくくられたのは、少年が何に興味を示しているのかいまいち理解できていないから。
浦原から了承を得られたからか、黒崎少年はなにやら顔を輝かせて浦原の着ているスーツを褒め称えて『仮面』というブランドについて話始めた。
それから浦原が発した言葉と云えば、「はぁ」とか「えぇ」とか、相槌ばかりで、名前を呼ばれれば「ッヒ」と小さく息を飲み込む始末。なにやら楽しそうに浦原のよくわからない話をしている黒崎に口を挟むなんてできるわけも無く。
「このスーツ、雑誌で見てすげえカッコいいって思ってたんすよ!うわあ、すげぇ!本当に着てる人初めて見た…」
「え、そ、うなんですか…?」
そんなに有名なブランドだったのかと、改めて自分の着ているスーツを見下ろしてみる。
夜一と店に行った際、冠婚葬祭にも使えるようにと黒いスーツを希望した。夜一は不満そうな顔をしていたが、渋々とこのスーツを持ってきてくれたのを思い出す。
少し細身ではあったが、着てみればしっくりと馴染む様を浦原は気に入っていた。
その際に、このスーツを着る時にはこれで合わせろ!と同じ店で色々なものを買わされた。靴にシャツにネクタイに。名称は知らないが、なんだか装飾品のようなものも買わされたが、流石にそれは邪魔に思い、今日はつけてきていない。
「シャツも、ネクタイもそうですよね?『仮面』好きなんですか?」
「いえ、あの…ゆ、友人が全部選んでくれたので…その、よくは知らないんです…」
その後「すみません、」と続く筈だった言葉は何故かいたく感動したらしい黒崎少年の「カッコいいっす」という言葉に遮られてしまった。
「カッコいい」?
生まれて初めて云われた言葉に、浦原は思わず少年を見つめてしまった。
「カッコいい」?アタシが?
「そのブランド、結構人気なんだけど高くて…オレみたいな学生じゃ全く手が出ないんです。それを知らずに着こなしてるの、なんか…カッコいいです、」
この場合。
浦原は一体なんと云えばいいのだろう。
自分に言われる事は永遠にないだろうと思っていた言葉に、唖然と少年を見つめかえる事しかできない浦原は一体なんと云えばいいのだろうか。
ぐるぐると、他の人間から見れば仕様もない事を悩んでいる浦原に気づくことなく、黒崎は眉間に皺を寄せながらも楽しそうにこちらに話し掛けてくる。どうしようどうしようと纏まらない思考のまま、口をついて出たのは消え入りそうな「ありがとうございます」だった。
その後は暫く喋って(主に少年が喋って、浦原が相槌を返すというものだったが)迷惑かけてしまったお詫びだと、浦原も知っている有名菓子店のロゴが入った袋を渡された。倒れていた黒崎の下に引いていたシャツと名刺入れもその袋の中にあった。別にいいです、と差し出された袋を受け取ろうとしない浦原に、黒崎は痺れを切らしたのか、受け取ってくれないと俺が困るんです、と眉を下げられてしまえば大人しく袋を受け取ることしか浦原には出来ない。
布団に横になったまま、ずりずりとその袋を引き寄せる。
薄汚れたシャツを引っ張り出して、こんな汚いものを敷布代わりにしていたなんて、黒崎サンは厭に思わなかったのだろうかと、ぼんやりと色落ちしたシャツを見つめた。
服のブランドに詳しかったし、今日会った時もオシャレな服装だった。こんな使い古したシャツを見て、彼はどう思うんだろうかなんて考えていると、どんどん自分を落ち込ませていきそうなので、無理矢理シャツから視線を剥がした。
お詫びだと、渡された菓子は幼馴染が好んでいたものだと記憶している。白い箱に入った焼き菓子に、少しばかり胃が焼け付くような錯覚を抱いた。
浦原は甘い物が苦手だ。特に、この菓子店は夜一の家に行くたびに出され、この部屋に遊びに来る時にも時折持ってくるので正直その甘さに辟易しているもので。しかし、断るのも悪いし、断って黒崎サンに厭な思いをさせるのも嫌だし、とありがとうとお礼を言って受け取ってきてしまった。
かさり、一つ菓子を手に取る。
見るからに甘そうな菓子に、うう、と眉を諌めながらも封を開け、口に含んでみた。
「…やっぱり甘い…」
折角、こんな浦原を「カッコいい」と褒めてくれたのに。
渡された菓子を食べれない事に申し訳無さ一杯になりながらも、これは今度夜一さんに渡そうと菓子の入った箱を袋の中へと戻した。




仕事が終わり、後は帰るだけという時に携帯が震えた。携帯を開けば液晶には『夜一様』。何て名前で登録してるのだろうと毎回思ってはいても、面倒臭くてついそのままにしてある。今日は買い物でもして帰ろうと思っていた予定を、一度頭の中から消してから通話ボタンを押した。
「はい…」
『相変わらず辛気臭い声じゃのう』
「夜一サン酷い…」
『いじけるな。さらに辛気臭くなるじゃろうが』
容赦ない言葉だが、それが夜一の挨拶みたいなものだと理解しているので、それ程傷つきはしない。それでも、時々は長い付き合いでももう少し柔らかく云ってくれてもいいんじゃないかと思う事はあるが、浦原が少しでも反論すれば楽しそうな顔でその倍の言葉たちが返ってくる事を過去の体験で知っているので思うだけだ。
回りの同僚がお疲れーと帰っていくのを軽く手を振って見送り、自分も帰り支度をしながら「で、なんですか」と通話相手に尋ねる。大抵の場合は『付き合え』だとか『家に来い』とかほとんど命令のような誘いを掛けてくる相手なのだが、電話越しに浦原に届いた声は、少しばかり戸惑いの色を含んでいた。
珍しい、と相手には見えていないだろうが、思わず驚きに目を瞠る。いつも浦原に構う事無くずけずけとモノを言う人なのに。
『実はのぅ…少しばかりお主の手を借りたいのじゃ』
「アタシ、ですか?」
本当に珍しい。いつもなら浦原に伺いを立てる前に既に決定事項としている人なのだ。
浦原は肩と顎で挟んでいた携帯を手に持った。眉間に皺が寄ってしまうのは、夜一のらしくない声音のせい。普段の偉そうな様子とは違うからこそ、身構えてしまう。そんな浦原の警戒に気がついたのか、電話の向こうで夜一がそう固くなるなと吐息交じりに笑った。
『市丸を覚えておるか?』
「えー…と、たしか、松本サンの…彼氏サン」
『そう、まあ、そやつの…。まあ詳しい話はこちらに来てからする。今から来れるか?』
「…行きますよ、後が怖いですもん…」
やっぱり今日の予定は無くなるのだなと、浦原は携帯を手にしながら項垂れた。今日は、最近マウスの調子が悪いから新しいのでも買おうと思っていたのに。ついでに気になっていた新機種でも見にいこうと思っていたのだが、夜一に逆らってまで行きたかったわけではないので、大人しく従うことにする。
「夜一サンとこでいいんですか?」
それならば。この間黒崎に貰った菓子を持って行こうかと、一旦家に帰る予定を頭の中で立てる。結局一つ二つは口にしてみたが、その甘さに気分を悪くするだけで終った。賞味期限もあるし、そろそろこちらから夜一に連絡を取ろうと思っていた矢先の電話であったので、例えその内容が浦原にとってあまり好ましくないものであっても、好都合な事に変わりはない。それに、夜一にこの間自分が経験した事も喋りたいと思っていたので、すんなりと了承を返せば、夜一から告げられたのは予想外の場所だった。
数十分後、夜一に告げられた場所を前にして、浦原はこれは偶然って奴なのかなあと黒地に白で書かれた『仮面』という文字を見上げていた。スーツを買いに夜一に連れてこられて店舗ではなく、今度新規でオープンする店のようで、ガラス張りのドアから見る内装はまだ壁の塗装さえ終っていない。オープン日が大きく書かれた広告を見て、これで間に合うのかなあ、と素人目で心配を抱いた所に、まだ何も置かれてない店内に見知った幼馴染の姿を見つけた。向こうも外で所在なさげに立っている浦原に気がついたのか、来い来いと手招きをされる。
まだ白いテープが張られたままのドアを慎重に開け、独特の臭いを放つ店内へと足を踏み入れた。
何の臭いだろう、と梱包材やら工具やらが散らばっている店内を見回しながら夜一の元へ行くと、彼女と向かい合うように立っていた銀色の髪の男が小さく頭を下げてきた。見たことのある顔だと思い、すぐさま彼が市丸だと思い出した。特徴のある細目の男は、夜一の親友である松本乱菊の恋人だ。
「浦原さん、お久し振りです」
「あ、は、はい。お久し振りです…」
少し西の訛りが混じる喋り方も、記憶にある。幼い頃にそっち方面に住んでいたせいか、訛りがどうしても抜けないのだと苦笑していたのも覚えていた。どうして彼がここにいるのか、と思う程浦原は耄碌はしていない。夜一が呼び出した理由が市丸だというのは覚えていたので、どういうことなのかと、見知らぬ場所と、あまり親しくは無い市丸の前で少し緊張しながらも目線で夜一に問い掛ければ、わかっているとばかりに頷かれた。
「儂が幾つかの店を持っているのを、お主は知っておるじゃろう?」
「はぁ…なんとなく」
「その中でな、『仮面』という店が中々人気が出ておってのぅ。今度この場所に新たに店舗を作る事になった。で、その新店舗をこの市丸に任せようと思うのじゃが、如何せん、この有様でな」
「来週にはオープン予定なんやけど…壁の塗装も終ってへん状態やねん」
「はぁ…」
だからそれがどうしたんです?と尋ねられる程浦原は喋り慣れていない。ただ、首を僅かに傾げる動作で夜一にその疑問を汲み取って貰う。幼馴染だからできる事ね、と笑ったのは松本だったと思う。そうしたちょっとした仕草や、目線での会話は見慣れぬ者には不思議に映るのだろう、市丸が僅かに目を見開いたが、浦原も夜一も気づく事なく会話を続けていく。
「塗装はまあ、なんとかなる。店内の必要な機材も、明日には届く予定じゃ。問題は店内のディスプレイでのぅ」
「はぁ…」
浦原には良くわからないが、この状態でも来週には店が開いてしまうらしい。以前夜一に連れられて行った店は全体的に黒がベースになっていたように思うが、今の店の内装からそれを想像するのは難しかった。新しい店舗が、近くにできるのだと知ったらあの子はどう思うだろうか。
なんとなく思いついた考えに、きっと喜ぶだろうなと、眉間に皺を寄せながら嬉しそうに笑う少年の顔を思い出していると、不機嫌な夜一の声が割り込んできた。は、と夜一に向き直れば、腕を組み、いかにも怒っていますと言わんばかりの幼馴染が浦原を睨みつけている。
「…お主、聞いておるのか?あ?」
「き、聞いてますよぅ!オープニング用のディスプレイに問題があるって事でショ?」
「なんじゃ、聞いておったのか」
ち、と舌を打つ女性に横暴だ、と心の内で呟く。声に出していないのに、視線が痛いのは浦原の思考を理解するくらい彼女との付き合いが長いからだ。視線を合わせないように、一体それで、どうして自分が呼ばれるんだと聞けば、ボクがお願いしたんや、と夜一でなく市丸が答えた。
「前、浦原さんが夜一姉さんの出した店で壁に映像投射したって話聞いてな、それや!って姉さんにお願いしたん」
「本当はデザイナーに頼む予定でおったのじゃが…その、こちらのミスでその話が立ち消えてのう…」
頼むわーと両手を拝む形にして浦原に懇願する市丸に戸惑いながら、ちらりと、先ほどとは逆に、こちらに視線を合わせようとしない夜一に視線を移す。拗ねたように唇を尖らせている表情を見て、ぴんときた。
「夜一サン…そのデザイナーの人と喧嘩したんでショ?」
「…」
途端に、饒舌だった夜一の口が閉じる。市丸はその隣で大仰な手振りで「凄い!なんでわかったん?!」と驚きを露にし、夜一に黙っておれ!と足を踏んづけられていた。
「…だからこうしてお主に頼んでおるのじゃろう!」
「自分でやった癖に…逆ギレするのやめてくださいよう…」
噛み付く勢いで夜一が詰め寄ってきたので、逃げるように一歩後ろに下がる。あんまり近寄って欲しくないのだが、この人にそんな事を云っても一蹴されるだけなのをわかっているので、逃げるように身を引くことしか浦原にはできない。そうこうしてる間に夜一に足を踏まれていた市丸が復活して、今度は祈るように両手を握りながら夜一と同じく詰め寄ってきた。
近寄られるのは嫌いだっていうのに!
「そうゆうわけで…浦原さん!たのんます!」
じゃないと来週のオープン間に合わへんのや〜!と悲痛な声で懇願され、さらには夜一から無言の圧力をかけられてしまってはもうただわかりましたと頷くことしか浦原にはできなかった。


浦原が以前手伝ったディスプレイは、ほんのちょっとしたお遊びみたいなものだった。
夜一にいつものように連れ出され、あちこちの店で酒を飲み歩いた後、結局浦原の家に夜一と乱菊に雪崩れ込まれた時のことだ。なんで自分の部屋なんだと思う思考力は既にその時の浦原には無く、アルコールでいい具合に回っていた頭と口で、気がつけば夜一にこんなのはどうですか、と進言していた。通常の浦原ならば考えられない暴挙に、松本は素直に驚ろき、やればできるじゃないと浦原を囃し立て、さらに浦原の気分を上昇させる役割をしていた。
次の日、二日酔いで痛む頭で仕事へと向かい、あまりの具合の悪さにその日の記憶は浦原には無い。そして、その日の会社帰りに夜一に拉致され、昨夜酔った勢いで語った事を実現させてみろといわれた時には、二日酔いで痛む頭も具合の悪さも一気に吹き飛んだ。


ぼんやりと、証明を殆ど消された薄暗い店内を見回す。黒で統一された壁に映し出されるホログラムに、少しは頬を緩めても許されるだろう。自分で作っておいてなんだが、中々よく出来たと思う。途中、夜一の我儘のせいで悲鳴を上げたりもしたが、こうして完成品を実際に店内で使われているのを見ると、あの時の苦労を忘れてしまいそうになる。
それで何度も夜一に無理難題を押し付けられている過去を振り返れば、忘れずにいたほうが自分の為ではあったが、こうした達成感を味わってしまえばまあいいかと思ってしまう。
うんうん、と一人頷いている浦原の名を、他の店員と話していた市丸が呼んだ。
明日のオープンに備えて店内は多くの人間が行き交っていたが、浦原は裏で壁に映る映像の最終確認をしていた為、人見知りを発揮するような場に居合わせずにすんだのだが、市丸に呼ばれた先でディスプレイの担当した浦原さんやと紹介された時にはさっと血の気が引いた。
市丸と同じくらいか、それよりも若い店員たちと視線を合わせないよう顔を俯かせる。どうも、と小さく云えば市丸は軽い紹介だけで浦原を開放してくれた。逃げるように夜一の元へと踵を返した所で、小さく「何アレ」と笑いを含んだ声が聞こえて、浦原はかぁ、と顔が赤くなるのがわかった。
明日オープンする、人気のブランド店内では自分は異質なものでしかない。よれたシャツに色褪せたデニム地のズボンでいる自分が、酷く恥ずかしかった。
仕事も終ったし、早く帰ろう。
夜一に帰る旨を告げ、店の隅に置いてあった自分の荷物を手に取り、ふと、顔を上げた先にあった商品に目が止まった。
何段かある棚の中段に置かれたシルバーのチェーン。十字架やら羽根やら、なんだかごちゃごちゃとくっついているチェーンを、浦原だったら手にさえ取らない。だけど、ふと頭を過ぎったオレンジ色に、つい足を止めてしまった。なんとなく、あの子には似合いそうだな、と思っからだ。
黒崎が着ていた細身のジーンズに、少し黒の混じったシルバーのチェーンは良く似合うと。
「なんや気に入ったのありました?」
「わっ!」
ぼんやり黒光りするチェーンを見ている所に後ろから声を掛けられ、しかも吐息がかかる程に近づかれていて、浦原は堪らずに驚きの声を上げた。慌てて鳥肌のたった首筋を抑えて振り向けば、浦原の声に驚いたのか目を見開いている市丸と目が合う。
かあ、と羞恥心で頬に熱が集まる。こんな所で立ち止まってないで、早く帰ってしまえばよかった。
「あ、や、あの…す、すみません…」
「こっちこそ驚かせてしもたみたいで」
すみません、と謝る市丸にいえ、そんな、と慌てて手を振りそそくさとその場を去ろうと足を踏み出した所で「ちょっと待ったってください」と市丸に呼び止められる。まだ、これ以上何かあるのかと眉を下げる。浦原がこれ以上この場に留まるのをあまり良しとしていないのを感じ取ったのか(この市丸という男は度々そういう気配りの仕方をしていたから)、すぐすみますさかいとへらり笑って見せた。
「これはボクからの個人的なお礼になるんやけど、」
コレ、と横の棚からチェーンを取って差し出されて、思わずへ、と間の抜けた声が出た。
「え、コレ、って…」
「正式な謝礼は店側からあると思いますけど、ほんま浦原さんには助けてもろたんで」
今包んできますわ、と言い残し、店の置くへと戻っていく市丸の後姿を見ていることしかできなかった浦原は、え、ちょっと、と誰に聞かれることの無い戸惑いの言葉を発しながら宙に手を彷徨わせた。
どうやら本当にチェーンを包んでいる市丸の姿を見て、浦原は困ってしまった。
そんなに物欲しそうな顔をしていただろうかと、羞恥心で顔から火が出る気持ちもあるのだが、何よりそれを受け取っても、浦原にはどうしようもないからだ。
だって。
だってあのチェーンが似合うと思った黒崎一度とは、一度しか――正確には二度だけれど――会っていないのだ。もらっても浦原には使い道はないし、黒崎に、渡す機会が訪れるとは思えない。それに、自分は少し手伝った程度で、商品をタダでもらえるような働きをしたわけでもないのに。
黒い袋を持って戻ってきた市丸に、受け取れないと固辞しようとしたが、ボクの気持ちや、と無理矢理に近い形に押し付けられ、あまつさえ市丸はそのまま店員に呼ばれてそちらに行ってしまったものだから、浦原は『仮面』というロゴが入った袋を持ったまま途方にくれてしまった。
夜一に返してしまおうか、と幼馴染の彼女の姿を探すが、なにやら真剣な顔で話し合っていて、きっと今声をかけたら凄みのある睨みを利かせてきそうで。結局浦原はどうしよう、と手の中にある袋を持て余しながら開店前、慌しく人が動く店内を後にした。

たった一度。
お礼がしたいと言われて、会っただけ。渡された菓子だったり、洗ってもらっていたシャツだったり、携帯に残る着信履歴に、どうせだから教えてくださいよ、とメールアドレスを教えたら一度だけ来たメールだったり。黒崎、という少年の痕跡はあるけれど、浦原が手を伸ばせるのなんてそれくらいだ。
メールだって、返事すら出来ていないのに、今更渡したいものがあるんですけど、なんて言えるわけがない。
どうしようかなあ、と手にした袋を何度も見下ろしては、溜息を吐き出すを繰り返しながら電車に乗った。いつも帰る時間とは違う電車は少し混みあっていて、それさえも浦原の気分を降下させる。
満員電車とまでは行かないけれど、どうしても人と肩がぶつかってしまうような車内で、つり革につかまりながらぼんやりと窓の外を眺めるでも無く見つめる。沈みかけた夕陽を見て、どうしようかなあ、ともう一度手にした袋へと意識を飛ばしたところで耳に一護という言葉が飛び込んできた。
え、と顔を上げて。振り返るまでも無い、窓ガラスにこちらに背を向けているオレンジ色が映っていた。じわり、とつり革を掴んでいる手に汗が滲む。こちらに全く気づくことの無い少年の姿を窓越しに見詰めながら、下品だとは思いながらも聞き耳を立てた。
学校帰りなのか、教科書が入った透明のケースを抱えている黒崎は、横に立つ友人と親しげに話をしている。人が多く、しかもこの時間は近くの大学、高校の帰宅時間と重なっていたのかあちこちから聞こえてくる会話の中から黒崎の声を探し出すのは少しばかり難しかった。
断片的に聞こえてくるのは、「ゼミ」や「教授」と言った言葉で。
学生サン、なんだなあと窓ガラスに映る後ろ姿を目を細めて見る。あちこちに立っている髪は一見不規則にも見えるが、きちんとセットされていて、薄手の黒いシャツを羽織っている姿は、あれでよく人を飛ばせるなあ、と感心するくらいに細くて。
かさり、と手にした袋が音を立てる。
黒崎一護と、浦原の最寄駅は確か同じだったはずだ。
電車を降りて、改札を出て。そこで声を掛けてみよう。「黒崎サン」と呼び止めて、「偶然ですね」とか、そんな感じの言葉を云って。
ふ、と吐息のような笑みが零れた。そんな事を、自分ができるはずが無い。
たった一度。
別に知り合い、と言うほどでもなくて顔をあわせた程度の邂逅で、どんな顔をして声を掛ければいいのか。きっと自分は、あの少年のほっそりとした後姿を眺めるだけで、口を開くことなくその姿を見送るだけなのだ。
がたん、と電車が揺れて、かさりと袋が音を立てた。
折角貰ったのに、無駄になってしまったなあ、とぼんやり思った所で、アナウンスで降車駅の名が流れた。
「じゃあなー」
「おう、」
降りていくオレンジ色の頭にちらり視線をやって、浦原も電車を降りる。なんとなく視線が黒崎を追ってしまう。帰宅ラッシュでいつもよりも人の多い駅の構内でも黒崎の頭はよく目立った。
階段を下りて、駅前広場に出た所で黒崎とは違う路を曲がる。結局声は掛けられなかった。それに、と自分の体を見下ろす。こんな格好で声を掛けられたら、黒崎も困るだろう。そうして沢山の声を掛けない理由を作っている自分自身が厭になる。どう言い訳を募っても、つまりは浦原が弱いだけの事なのだ。
声を掛ける勇気も無い。気づいてくれたらいいな、と向こうからの動きを待っている自分は酷く情けないイキモノだった。
『カッコいい』って云ってくれたのに。目をきらきらさせて、浦原なんかと向かい合って喋ってくれた黒崎に、自分の方がお礼をしたかったのに。はあ、と知らず零れた思い溜息に、背さえも丸めてしまいそうになった。その背に「浦原さん」と声を掛けられた時、浦原は最初幻聴だと思った。
黒崎が自分の名前を呼んでくれた時のことを思い出していたせいだと思った。
もう一度、「浦原さん!」と強い口調で呼ばれた時、振り返るよりも先にとん、と肩を叩かれた。
「やっぱり、浦原さんだ」
今晩は、と軽やかに浦原の横に並んだ黒崎の姿が信じられなくて、浦原はぼかんと口をあけて目を瞠った。まさか黒崎が浦原の姿を見つけるとは思っていなかったし、黒崎が自分に向かって笑いかけるなんて思ってもいなかったし、何より。
こんな風に、向かい合うことなんて、もう二度と無いと思っていた、のに。
「浦原さん?」
返事を返そうとしない浦原に、黒崎が眉間に皺を寄せる。それじゃあ跡になっちゃうんじゃないかな、と思いながらも、浦原は何も云えずにただじ、っと黒崎の顔を見つめることしかできない。
きょとり、と不思議そうな顔でこちらを見詰めている瞳や小さな鼻や薄い唇が、なんだかとても近く見える。だけど、近づかないで欲しいとは、思わない。呆けたような思考の中で、ぽかりと突然浮かんだ熱に、何だろうこれはと思う。
少し、胸が温かい気がする。
大丈夫っすか、と目の前で手を触れられ、やっと開きっぱなしの口から飛び出してきた言葉は、「ッヒ」という喉が引き連れた音だった。













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