ハッピーサンセット 01
どかり、と唐突に耳に飛び込んできた音に、反射のように浦原は身を竦めた。
仕事帰り、以前から楽しみにしていたモノが手に入り、今にも弛みそうな顔の筋肉をなんとか保っての帰宅途中。力の入った手が、抱えていた箱を潰してしまったように思えて、思わず確認してしまったが、どこにも凹みはなく、ほっと安堵の息をつこうとしたところで、再びどかり、と何かがぶつかる音と、今度はばき、と何かが割れるような音が聞こえてきた。
なんだ、と顔を上げてしまったのが悪かったのか、一瞬でもその場に立ち止まってしまったのがいけなかったのか。
目の前、眼前すれすれを飛んでいったものが人だと気がついたのは、道の端に派手に転んだのを見てから、だ。
道を転がるように横切った男の体は、道の端に当たり前のようにある電柱にぶつかり、止まった。
ひ、と喉を引き攣らせて、思わず後退りした。
倒れた男はうう、と苦しげな呻き声を上げたきり、ぴくりとも動こうとはせず、ぐったりと道端で横になったまま。大丈夫か、と声を掛けることも、駆け寄ることもできずに硬直していると、男が飛んできた横道から、ぬい、と人影が飛び出してきて、ひ、と今度は声に出して身を仰け反らせた。
諍いごととは、とことん関わらないような人生を送ってきた。浦原にとって、喧嘩や暴力は無縁で、遠いもの。だから、こうして身近に現れられると、途端に対処が出来なくなる。ひ、と固まった浦原の脳裏に、先ほど飛ばされた男の姿が自分とダブって見えたのは、被害妄想も多分に含まれてはいたが、この状況ではあながち間違った認識とは云えなかった。
せめて今日買ったばかりのこれだけは、と胸に抱いた箱をひっしと抱え直したが、眼前に現れた相手から想像していた怒声と衝撃が与えられる事はなく。
手を伸ばせば届くように位置にいる相手と向いあったまま、浦原はただ動くことも、逃げることもできずに硬直姿勢を保ったまま。
滲み出てきた涙のせいで、視界は酷く悪かったが、浦原の目の前にいる相手が訝しげな顔でこちらを伺っているだろうことはわかった。
殴られるか、怒鳴られるか。
その緊張に耐え切れず、目を瞑ってしまおうかと瞼に力を入れた瞬間、目の前にいた相手の体が崩れ落ちた。人が倒れる様を一部始終見てしまったショックよりも、どさりと、胸元に倒れこんできた相手の鮮やかな髪の色がやけに視界に、思考に焼け付いた。胸に抱えた箱が潰れてしまったが、まさか人を地面に転がすわけにもいかず。
うう、と情けない声を上げながら、力無く、浦原とは違う意味で呻き声を上げている人間の体を抱えた。ずれた眼鏡と、涙のせいで滲んだ視界では相手の姿はよく見えないが、抱えてみれば、自分よりも小柄な相手、のようで。
「あ、あの…」
大丈夫ですか、とかけた声に相手が答えを返すことは無く。答えを返せないのかもしれないが、ただ、く、と苦しそうに吐き出された吐息が、予想していたよりも若い声に聞こえて、浦原は思わず周囲を見回した後、その惨状に唖然とした。
先ほど飛ばされた男の姿は、すでにわかっていた。が、横道を覗きこんだ時の衝撃は暫くは忘れられそうにない。
死屍累々。字面にすればなんとも恐ろしい光景ではあるが、実際に目にしてみれば奇妙以外の何ものでもなかった。倒れ付す人々の格好が、奇妙なポーズをしているからかもしれない。倒れている人の数が、どうにも、今浦原が支えている一人の人間によって伏されたのだと繋がらなかったからかも、しれない。
腕に抱いた人は、だらりと、腕に足、それに頭を力無く投げ出している。そのどれもが、自分よりも線が細いことに気がついて、凄いなあ、とその場と、心臓が竦む反応に相応しくない憧憬の念なんかを抱いていると、ぐずりと、さらにオレンジ色の頭から力が抜けた。
うわあ。呆けた口調が漏れ出たと同時に、なんとか倒れないように支えていた人間が、唸りのような声を発した。
「え、え…あの、」
「悪ぃ…ここ、に…電話…」
「ちょ、ええ?!」
慌てたように掛けた声は、しかし相手の意識を留める役割は果たしてくれなかったようで。ずるりと、さらに重くなった相手を支えるために差し出した腕から、がしゃん、と今の今まで、何とか抱えていた大事な大事な箱が滑り落ちていった。
ひ、と先ほどとは違った意味合いの悲鳴が喉から漏れたが、いくら浦原と云えど、モノと意識を失った人、どちらかを選ばなくてはいけなかったら、選ぶものは悲しいことに決まっているのだ。本気で泣きそうになりながらも、この場に留まることが得策ではないことくらい、浦原にだってわかる。箱を置き去りにしたまま、意識の無い人の体を抱えて移動している間、腕にかかる人の重みと、がしゃり、となんとも物悲しい音を立てた大事な箱の姿に目頭が熱くなった。


浦原喜助は、三十半ばにして未だに恋人が出来た事はない。
それどころか、親友と、胸をはって言えるような友もいない。
親しいかもしれない、と思っているのは小さい頃、親同士が懇意だった幼馴染の夜一という女性と、趣味仲間で、ネットで知り合った藍染という男だけだ。それでも世間一般的に云う親友という間柄ではなく、時折会って話をする程度。
そう考えると、浦原喜助には仲間と呼べる人間はいたが、友、と純粋に呼べる人間はいなかった。
それを寂しいと感じた事がないのは、浦原が昔から一人で遊ぶことを好んでいたからだ。一人空想に耽る浦原を不安に思った両親が、夜一に幾度となく外に連れ出してくれるように頼んでいたことを知ったのはつい先日のこと。そこまで心配されていたのかと思うと、申し訳ない気持ちも湧くには湧くが、その相手が夜一だったのは両親の選択ミス、だろう。
確かに、家の外には連れていかれた。遠出もさせられた。しかし、その先が問題だった。夜一がどういった趣味を持っているのか、恐らく彼女の家族も知らないだろうと浦原は思っている。だって、彼女の猫かぶりは年季が入っている。
結局あまり暮らしぶりが変わらない浦原に両親も諦めたのか、最近の、電話での会話は近況報告程度になった。
といっても、あまり生活の変化がない浦原に言えることは、「特になにもないけど」。
そんな浦原にとって、目の前で人が飛ばされたり、意識を失った人間を抱えて百メートルほど離れた場所まで避難させたり、などといった出来事は、今までの人生の中でかなりの大事件だ。
浦原の右、力無く横たわっている男―――自分より大分若そうな、もしかしたらまだ学生かもしれない―――は、浦原に携帯電話を手渡して意識を失った。思わず倒れてきた男を支え、久し振りに感じた他人の体温にぎくりと体を強張らせる。自分とは違う、少し高めの体温。けれど、腕に当たる頬が驚く程冷たい。
その冷たさに、意識を失う寸前、この少年が口にした言葉を思い出す。
『悪ぃ…ここ、に…電話…』
ちらり、と大通りから隠れた小道に横たわっている少年を見つめる。いくらなんでも、地面に直に、というのは憚られたので、薄くても無いよりはマシだろうと、自分の上着を下に敷いた。何度も洗ったせいで、色落ちした上着と、その上に横たわっている少年の鮮やかな髪の色が酷く似合わない。
はあ。もう、何度目になるかわからない溜息を吐き出す。

この場所に避難してから、握っていた自分のではない携帯の存在を思い出した。額に浮かぶ汗を袖で拭いながら、なんとか少年を運び、へたりを腰を下ろした所に、その存在に気がついた。電話をかけて欲しい、と言っていた途切れがちの声やら、くたりと力無く浦原に寄りかかった少年の細さやらに、滅多に思うことではないが、『やってあげなくては』と、思ってしまった。
ぱちん、と少し厚めの携帯を開いて、そこに表示された「自宅」という文字になんとなく、どきりとする。
番号の羅列に、こくりと唾を飲み込む。そこで、喉がカラカラに渇いていたことに気がついた。
他人の家に電話なんて、あまりにも久し振りすぎて緊張する。こんな姿を夜一が見たら、あの秀麗な顔を諌めて、相変わらずうざったい男じゃのう、と一発くらい拳が飛んでくるかもしれない。
それでも、横に意識なく寝転がっている少年の顔を見て、勇気を振り絞り、通話のボタンを押した。





薄茶けた景色の中で、妹達が手を繋い出歩いている。その後姿を見て、「ああこれは夢だな」と気がついたのは、一護の横をすり抜けて妹たちの元へと向かう母がいたからだ。長い、栗色の髪を緩く結んで、風邪に帽子が飛ばされないように、ほっそりとした手で抑えている姿は、一護が昔に見た光景。妹達が嬉しそうに母に纏わり着く姿に、おや、と違和感を抱いた。
母は、一護が小学生の頃に亡くなったままの姿で、けれど妹達はその時の一護よりも大きい。一護の記憶の中には、母と一緒にいる妹達はもっと幼い。
現在の妹達の姿に、過去の母の姿が重なる夢に、不可解さを抱きながらも自然と頬が弛むのは、仕方がないのかもしれない。
ずっと、夢見ている。お母さん、といつも家事を任せきりの妹の、甘える仕草も、あのね、と泣く事のなくなった妹の甘い顔も、ずっと一護が見たいと思っていた光景。
ごう、と強く吹いた風に母が帽子を抑える。そして、後ろを歩いていた一護を見て…

『一護』

柔らかく自分の名前を呼ぶはずだった唇が、音を発することなく消えた。


「起きろ糞餓鬼」
眩しい、と感じた時には目が覚めていた。鮮明になる視界に飛び込んできた厳つい男の顔と、不機嫌そうな野太い声に、目覚めたばかりだというのに一護の気分は一気に下降した。
「なんだ、その辛気臭ぇ顔は。ただでさえしょぼい顔だってのに、もっと酷ぇことになってんぞ」
「…そのしょぼい顔したのはてめぇの息子じゃねえのかよ…」
いてえ、と痛む頭を抑え、上半身を起こそうとして背筋を駆け抜けた痛みに、ぐう、と半身を折り曲げた。
「大人しく寝とけ。骨まではイっちゃいねえが、ギリギリだったんだからなぁ」
「あぁ?」
なんでそんなことになってんだ、と疑問を呆れ顔の父親に問い掛ける前に、うっすらと、靄のかかっていた頭がクリアになってくる。確か、派手に遣り合っていたような…。
「ウラハラ君に感謝しとけよ。お前担いで逃げてくれたんだから」
「ウラ、ハラ?」
聞きなれない名前に、必死に自分の友好関係を頭の中で洗ってみたが、『ウラハラ』という名前に該当する友人は出てこない。もしかしたら、一護が忘れているだけかもしれないが。訝しげに呟いた一護に、白衣を着たまま煙草に火をつけようとしていた父親がひょい、と眉を上げた。
「なんだ、お前の友達じゃねえのか?」
「いや…多分知らねぇ…っつ、」
びり、と走る唇の痛みに顔を顰める。改めて自分の体を確認してみると、確かに満身創痍と云っていい程に痛めつけられていた。まあ、やられてるだけ、なんて性格ではないので、倍返しはしておいたが。そこで、ふ、と視界の端に見慣れない人影を見て、そういえば、と朦朧としていた意識の中で声をかけた男の存在を思い出した。
「あー、なんか、道歩いてた奴にうちに電話してくれ、って頼んだような…」
「じゃあなんだ、あのウラハラ君は全くの他人か?」
「…つか、通行人?」
「お前なぁ…」
そりゃ明らかにお前が巻き込んじまっただけの被害者じゃねえか。
呆れた溜息と共に頭を結構容赦ない力で殴られ、一護は全身に響く痛みに体を縮こまらせた。痛ぇじゃねえかと喚く言葉さえ出てこない。ぐおおお、と頭を抱え、痛みにじわりと視界が歪む。
「手加減しろよこの糞親父!」
オレは怪我人だと喚いたところで堪える相手では無い事は百も承知だが、つい怒鳴り散らしてしまうのは、なんだかもう、癖みたいなものだ。そしてやはり、父親は唇を尖らせ、歳不相応の落ち着きの無さで一護を散々からかった所で、ふいに動きを止めた。
今度は何が繰り出してくるのだと身構えたが、一向に手も足も出てこない。「どうした?」と尋ねれば「いや、ちょっとまて…たしか…」と一護の寝ていた医院内のベッドの傍にしゃがみこんだ。
一護の家は、病院だ。と言っても、そんな大層なものではない。実家に併設された医院では、父が開業医をしており、助手はまだ小学生の妹二人、という、小さな診療所だ。こうして一護が喧嘩でこさえて来た傷は、大抵が妹の説教と、少しばかり痛い方法で治療される。だから、一護は意識を失う寸前、自宅に電話をしてくれ、と通りすがりの見ず知らずの人に頼んだのだ。
最後の一人、と思って殴った男が、往生際悪く一護の足に縋りつき、一瞬、ほんの一瞬動きを止めたせいで後ろから頭を殴られた。ゆらぐ視界でなんとか仕返しをし、よっしゃ、とガッツポーズを決めたつもりだったのだが、腕は既に両方上がるような状態ではなかった。
そして、ふら付く足で縋ったのは、不思議な匂いをした男だった。多分、男だったと思う。
その時の一護は視界も危うかったし、何よりつけていた眼鏡は最初の方に飛ばされ、見るも無残な姿に変わり果てている。もとより不鮮明な視界に、さらには朦朧とする意識まで被ってしまっては、縋りつけるほど傍にいても、相手を判断するのは難しい。
今まで嗅いだ事の無い匂いが、最初に意識に残り、次いで大丈夫か、と心配そうな声が耳に残った。
そして相手が誰かも判断する前に、自宅に電話を掛けてもらうように頼んだ。コイツなら、なんとなく大丈夫だと思ったのだ。実際、男は(親父も君と呼んでいたし、何より縋った時に自分の頭よりも上から声が降ってきていた。それ程小さくない一護よりも、上背があるならば大抵は男、だろう)一護の自宅に電話を掛け、あまつさえあの現場から一護を運んでくれたらしい。
一護は、平均的な男子に比べればウェイトは無いかもしれないが、それでも身長は平均以上あるのだ。それに、激しいスキンシップをしてくる父親や、妙に突っかかってくる輩も多い。それで鍛えられた体は、それなりに重い筈なのに、見ず知らずの『ウラハラ』さんは一護を助けてくれたという。
(すげーイイヒト、だな)
助けて貰った相手に、感謝の念と同時にじわりと、胸が温かくなるような喜びを抱いた所で、なにやらベッドの下、ごそごそとモノを漁っていた父親がむくりと顔を上げた。その風体もあいまってまるで熊のようだ。
そんな、父親本人に知られたらまた煩く言われるような事を思いながら一護が「何だ」と先を促せば、父親が差し出したのは色褪せたチェック柄のシャツ。
見た事の無いそれに、だからなんだとばかりに眉間に皺を寄せれば、父親はごそごそと、そのチェックのシャツのを逆さまに振り始めた。
「…何してんだ?」
「いや、手がかりをな…。お、あった」
何度かばさばさとシャツを振っていると、かしゃん、と何かが床に落ちた。未だ体は痛むが、好奇心に負けて身を乗り出してしゃがみこんでいる父親を見下ろせば、にい、としてやったり、と言わんばかりの笑顔。
「だから、何なんだよ?」
「さすがお父さん!ナイス推理!」
「あ?」
不機嫌そうに口を突き出せば、じゃーん、と効果音つきで眼前に差し出されたのは、よく見掛ける大衆ブランドの、カードケース。ちなみにそのブランドは一護もよく愛用している。
「このシャツ、お前の下に敷いてあったんだぜ?」
「下?」
「多分、直接地面に寝かせないように、だな」
そのまんま転がせておいてもよかったのになーと、カードケースを調べはじめた父親の姿に呆れながらも、一護の中で、『ウラハラ』さんの株が急上昇したのは言うまでも無く。まだまだ世の中棄てたもんじゃねえなあ、と、遊び盛りの大学生らしからぬ発言を心の内でしたところで、父親が「ビンゴ」と一枚の名刺を一護の目の前に差し出した。



『礼、しとけよ』
そう、父親に云われて渡されたのは、色落ちしたチェック柄のシャツと、そのシャツに紛れ込んでいた名刺入れ。
自分の部屋、ベッドの上に寝転びながら、手遊びにその固い名刺入れを頭の上に掲げた。かしゃん、と銀色の名刺入れを開き、中から小さな紙を一枚、取り出す。
「浦原喜助」
それが、多分、一護が昨日縋った相手の名前。
字面だけを見ていれば、なんだか目出度い並びだと、思う。
名前以外には会社の名前と、『浦原』さんの役職名。まだ就職活動など考えたことも無い一護には、それがどういった役割の位置なのかはわからないけれど、横文字の役職名によくわからないまま、すげえなあ、と呟いた。
「うらはら、きすけ、ねぇ…」
口にしてみれば、どことなく古臭い。祖父母とかにつけられた名前なのかな、などと想像を働かせてみても、想像だけではわかるわけが無い。
紙を見つめていても埒があかないことはわかっていたが、どうにも電話がかけづらい。見知らぬ相手に、醜態を晒してしまったせいもあるかもしれない。
それに、初対面の相手には大抵、いい印象は持たれたことの無い一護にとって、最悪の印象を与えたであろう相手への電話は、流石に気が引けていた。
はあ、と気だるそうに溜息を吐き出して腕をベッドの上に放り投げた後で、失敗した、と痛みに顔を顰めた。そう、たいした怪我ではなかったが、翌日に痛みが引くような怪我でも無い。暫くは風呂に入るのもキツイだろうなと、気が重くなりながらも、横に放り出した携帯を手に取った。
うだうだ考えるのはあまり好きではない。せめて礼だけでも告げよう、と名刺に書かれた携帯番号を打ち込んだ。



いつものように朝起きて、万年床の布団の上で着替える。近くにある洗濯物束から適当に着れるものを引き出してから、まず最初にする事はパソコンの電源をつけることからだ。
起動するまでに時間がかかるので、乱雑にモノがおかれた部屋を横断し、小さな台所に無造作に置いてあった食パンを袋から出した。
一応、賞味期限を確認するのは、以前良く見ないで食パンを口に入れた瞬間に、青いカビを見つけてしまったせいだ。
日付がまだ大丈夫なのを確認してから、そのままパンに齧り付いた。何も味はしないが、別に嫌いではない。むしろ、無性に食べたくなる時がある。夜一にはどんな食生活をしているのだと呆れられた事もあったが、別に食べ物に拘っていない浦原にとって、朝の僅かな時間に摂取できて腹が膨れればなんでも良い。
朝から和食のフルコースを食べるような夜一から見れば、浦原の食生活はかなり破綻して見えるのかもしれない。
むぐむぐとぱさぱさとした触感を味わいながら朝の準備をしていると、足に大きく歪んだ箱が当たった。
昨日、仕事帰りに手に入れた待望の。
「…べこべこになっちゃったなぁ…」
まあ、中身は大丈夫だったからよかったけれど。
はあ、と溜息を吐き出して角のへこんだ箱を持ち上げた。店のロゴが大きく書かれた紙の巻かれた箱を潰し、台所に置かれた塵袋に突っ込む。中身は既に出してあるから、へこんで汚れてしまった箱は既に用済みだ。いつもなら、箱ごと全部保存しておくのだけれど、ここまでべこべこに、しかも隅に血のような赤い染みがついてしまっているのは、流石に手元に置いておくのは怖い。少し黒く変色していた染みにひい、と一人声にもならない悲鳴を上げたのは昨日の夜のことだ。

* * * *

昨日、未だ収まりきらぬ動悸を抱えながら家に辿り付き、ほ、っと一息ついたところで手に抱えていた箱の存在を思い出していた。あの状況でよくこの箱を持って帰ってきたと、自分を褒めてやりたいと、一人で顔を綻ばせていたが、箱のあまりの様に直に顔から血が引いた。
慌てて箱を空け、中身を確認すれば、ずっと欲しいと思って数週間前から予約していたフォルムが浦原の目に飛び込んできた。凄い、と感心するのは後回し。とりあえずどこかに傷が無いかを確認してから、やっとほう、と安堵の溜息を吐き出した。
そっと、それを棚に置く。
「やっぱり二期の型が一番かな…」
棚の上には所狭しと置かれた模型が、乱雑とした部屋には似つかわしくない整然とした様で収まっている。先ほど浦原が置いた人型のロボットは、浦原が好きなアニメ作品に出てくるものだ。ずっと前から楽しみにしていた。この、箱から取り出して、模型を手にする瞬間を想像しては一人にやける顔を抑えていたというのに。
憧れの造形を目の前にしても、それほど気分が昂揚しないのは、先ほど見た光景が尾を引き摺っているからで。
「…凄かったなあ」
あんなもの、ドラマとか、本とかの中でしかないと思っていたのに。
人が沢山倒れていた。苦しそうな呻き声なんて、実際に聞いた事もないから、なんだか発情期の猫の声に聞こえた。
そこにふらりと現れた、オレンジの色が妙に目に焼きついて離れない。
凄い派手な色に髪を染めていたのに、家は病院なのかと、渡された携帯に表示された番号に電話をして不思議に思った。
「大丈夫だったのかなぁ、あの人…」
ぼんやりと、先ほどのことを思い出す。
ひいひい言いながら人一人を運び、ほ、と休む間も無く渡された携帯で電話した。
呼び出し音が妙に長く聞こえて、こくりと唾を飲み込んだ時に『はい』と少し不機嫌そうな声が出た。思わず「っヒ」と息を呑んでしまったのは、もう癖だ。
「あ、あの…」
そこからは、現在の状況と、横で意識を失っている人の状態を話していた筈なのだが、あまり覚えていない。ただ、電話の相手が小さく舌打ちをして、「そこにいろ。今から迎えに行く」と唸るように云って、通話が切れてしまった。
ど、っと溢れる汗を手で拭う。持っていた携帯を閉じ、ぼんやりと、迎えが来るまで意識なく横たわっている少年を見下ろしていた。

少年を迎えにきたのは、上背のある強面の男だった。
まるで熊のようだと、半分恐れを抱きながら状況を改めて説明すれば、「あんた名前は」と尋ねられた。
「う、浦原です、」
「そうかい…。悪いな、うちの馬鹿餓鬼が世話かけたみたいで」
よいせ、と軽々と横たわっていた少年を浦原のシャツごと持ち上げた力に驚きながらも、いえ、やら、そんな、やら返事にもならない言葉を返してはみたが、そうか、親子なのかと、担ぎ上げられた少年と、熊のような男を見比べた。あまり、似ていない気がする。
手伝いもできずにぼんやりと突っ立ったままでいると、車の中に少年を積み込んだ(意識を失っている人間を、まるで荷物のように放り投げていたので、浦原にはそう見えた)男が浦原を振り返ったので、慌てて姿勢を正してしまった。
奇妙な動きをした浦原に、男は不思議そうに目を瞠った。
「どうした?どっか怪我でもしてんのか?」
「いや、あの、その…」
「?まあいいや。とりあえずコイツ連れて帰るから、えーっと、ウラハラ、君。ありがとなーコイツにもよく言っとくから」
文句やらなんやらはコイツに言ってくれ。
さっきから妙に思っていたのだけれど、どうやら、自分はこの少年の知り合いと勘違いされているようだ。いや、あの、とその事を否定しようと声をかけようにも、相手は既に運転席に乗り込んでいて。
「じゃあ、悪かったな。気をつけて帰れよー」
そこまで云われてしまえば、浦原としては「はい、」と頷くことしかできず。
遠ざかる車を見送って、ぼんやりと帰路についたように、思う。

* * * *

近所のコンビニで買ったカップ麺の入った袋を片手に、パーカーのポケットに入れていた鍵を取り出す。錆びた鍵穴に銀色の鍵を差込み、がしゃりと音がするまで回す。それまではある程度力をいれずにできるのだが、鍵を抜く作業が一番厄介なのだ。ドアノブを捻ったまま、押し込んでいた鍵を勢い良く引き抜く。少しひっかかりはしたが、すんなりと抜けてくれた鍵に嬉しくなって、鼻歌を歌いながら部屋へと入る。
時計を見てみれば、大抵の人間が夕食を済ませた時刻。そう気づくとぐうと腹が鳴るのだから、人の体は不思議だと思う。
蛇口から鍋に水を入れて、かちりとコンロをつけた。やかんもポットも無い浦原の部屋でカップ麺を食べようするには、この鍋でお湯を沸かすしか無い。大抵はコンビニ弁当で済ませる浦原にとって、台所にあるべき調理器具は不要なもの。この鍋さえも、不憫に思った幼馴染の女性が持ってきたくれたものだ。浦原は良く知らないのだが、有名な人が作ってる鍋らしい。値段も張るのだと恩着せがましく云っていた夜一は思い出せても、その有名な人やら、鍋のどこがいいのかという話は忘れてしまった。
別に覚えていなくとも不憫には思わないので、浦原の中でその話はそう重要ではなかったのだろう。
湯が沸くまでには時間がある。その間にメールチェックでもしようと、パソコンの電源を点ける。パソコンが起動するまで、ぼんやりと椅子に座っている間、なんと無しに棚に置いている模型を見遣る。
昨日手に入れたそれは、本当に楽しみにしていて。だけどそれを見るたびに思い出すのは昨夜のことばかり。と、云うより倒れ伏した人の声やら、自分に縋ってきた人の体温だったりと、随分と感覚的なものだった。
昨夜のことを思い出しては、オレンジ色と、苦しそうに寄せられた眉間の皺が瞼の裏をちらつく。
あちこち、怪我をしていたようだけれど、大丈夫だろうかと心配しては、詮無いことかと溜息を吐き出した。
電話を掛けた折に、『黒崎医院です』と名乗っていたから、恐らく苗字は黒崎、なのだと思う。
まあ、別に相手の連絡先を知って、それからどうこう、という気は全くないのだが。
ただ、あの少年が無事かどうかが酷く気にかかっていた。
気になるならば、その『黒崎医院』を尋ねればいいという事はわかっていたが、そこまでするのは流石にどうだろうと怖気づいてはちらつくオレンジ色に困ったなあ、と頭を抱えていたところで携帯が震えた。常にマナーモードにしている携帯は、家に居る時は大抵布団の上に放り出している。机の上に置いておくと、がたがたと煩い音を立てるのが苦手で、帰ってきたらズボンのポケットに入れていた携帯を布団に放り出すのはもう習慣だ。
浦原の携帯の番号を知っている人間は限られていて、さらに電話を掛けてくる人間など、さらに限られている。夜一さんかなぁ、と番号も何も確認せずに電話に出れば、向こう側から聞こえてきたのは、少し戸惑いを含んだ男の声。
『あの、浦原さんの携帯で間違い無いでしょうか?』












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