Grating life 02
それは確かに人だった。

埃塗れだが、一目で豪奢だと分かる作りの寝台。その横にまるで調度品のひとつのように置かれた椅子に蜜柑色が飛び出していた。もとより黒や茶色といった静かな色のものが多く、時間が経ち、黒ずんでしまった館内で、それだけが色を持っていた。陽が沈み、完全に夜の闇に包まれた中、月明かりだけが唯一の光。青白い月明かりに照らされたその姿に男は誘われるように足を踏み出した。

一体、何年こうしていたのだろう。

長い睫が頬に影をつくり、下りた瞼が輝くように白い。
人にしか見えない。けれど、この場所が生き物がいる事を否定している。丸みの残る頬とシャープな顎が、青年が少年から脱したばかりなのだと見せていた。美しい、青年だ。
彫刻のような、硬質な美しさではない。人の息吹を感じ、生命の強さを感じられるような陽だまりの美。
目を閉じていても命の息づかいを感じるような。声をかける事すら忘れ、男は柔らかそうな頬に手を伸ばした。
薬剤のせいで荒れた指先に感じるのは、冷たい…けれど人の皮膚の柔らかさ。生物なのか無機質なのか、さらに判断がつき難くなった。
(乾燥している肌のようにも、人を真似たマネキンのようにも感じる)
瞬間、自分の中で生まれた違和感に吐き気に似た気持ち悪さを感じた。
視覚と、触覚。それに、浦原は自分の直感を信じてはいるが、それのどれもが違う情報を脳に伝えてくる。
これは、なんだろう。
改めて見詰めた青年の瞼が、ひくりと動いた。





かちり、かちりと音がする。時計はとうの昔に時を刻むのを止めている。では一体何の音かと耳を済ませばその音は体の中から聞こえてきた。体内に覚えのない音が。自分の稼動年数を刻むのか。それとも期限を教えているのか。あれから何年経っているのか、正確な月日を弾き出せるがしっくりとはこない。『父』が今にも、一護と名を呼び掛けてきそうだと夢見る。『父』の全ての技術をつぎ込んだこの頭が少し一護には苦しかった。これがなければ。こんな風に胸が軋むこともなかったのに。
ふと、かたり、と微かな音を耳が拾った。
次いで、ぎしりと床の軋む音。
最近目覚めに時間のかかるようになった体が、人の気配を読み取った。頬に温もりを感じたのと、目覚めの準備が終わったのは同時だった。きりきりと歯車が回りだし、かたり、と瞼が音をたてて開かれる。
ガラスの瞳が見たのは、月色の髪と、金に光る瞳。
知らない人間だと判断し、客人が来たと認識した。主は不在なのだと告げようと口を開いた。けれど、口から洩れるのは壊れた歯車が絡みあう奇妙な音。

「……ぁ…、」

声を発する為の喉が正常に働かない。
声を出す事のなかったせいで、壊れたことに気がつかなかった。

これは困った、事だと思う。
喋る事のできなくなった自分に目の前の人物と会話は成り立たない。主はすでにないのだと告げようと口を開くが喉が壊れてるためにからからと音がなるだけ。だんだん男の顔が訝しいものへと変化する。この館を訪れた人なら、『父』に用のある者だ。
しかし『父』は当の昔に。
客人に不快な気持ちを抱かせてはならないと、一護は男の手を取って軋む体で立ち上がった。



きりきりと、ゼンマイの音がする。
僅かな月明かりが青年の瞳に吸い込まれる。時折反射で光るその様は、なんとも言えぬ美しさで。青年の冷たい手の感触に、はっと現に戻る。形のよい唇が何度か動くが、そこから発せられるのはからころと空回りする歯車の音。
滑らかな手に握られ、鼓動が大きく跳ねた。ゆっくりとした動作で立ち上がり、きし、きしと音を立てて歩き出した青年につられるように男もぎこちなく、握られた手の冷たさを感じながら歩き出した。



かさりと落ち葉を踏みしめながら、青年は男の手を緩く握ったまま雑木林の中へと誘った。
これは、何だと夢見心地に思う。らいくもないが、妖精か、悪魔かとも。
今自分の手を引くこの美しい青年は、本当に人なのかと疑ってしまう。ひたり、と足を止め、後ろを振り返った青年の瞳を見て、それでもこの手を離すことは出来ないと理解した。青年の瞳が伏せられ、男に見せるように体がずらされた。小さな墓だった。花が添えられ、館と同じようにひっそりと佇んでいた。かさり、と乾いた枯れ葉が踏まれて粉々になる。名が彫られた石は年月が経ちすぎたせいか、欠けてはいたが書かれた文字が読めない程ではなかった。
『浮竹十四郎』の名を読み取り、ここがあの人形師の墓かと目を見開いた。

じっと墓を見つめる男の姿に、主の不在を知らせる事ができたと理解した一護は、男の手を離し、元来た道を戻ろうとした。

「あ、キミ…、」

ちょっと待ってと腕を掴まれ足が止まる。カシャン、と腕の関節が高い音をたてた。その音に、男の目が驚愕に開かれる。手首を引かれ、袖が捲られた。露わになるのは、ひび割れの目立つ人形の腕。何度か修理したが、大きくなる割れを止める事はできず。見目の悪い腕を凝視し、男は息を呑んだ。

「キミは、」

長身の男の顔を見上げ、一護は出ない声で、人形ですと告げた。



(2008/09改)










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