歯車が動き出す。
機械じかけのこの体には寿命はないが、稼動には期限がある。人形を、一護を作った人間は既に亡く。死の間際に残した言葉が一護を今も停止を許さずに存在させている。床につき、寝たきりになった『父』は一護の頬に骨と皮だけになった手を伸ばした。かさりと、音をたてて『父』はこう洩らした。
「死んではいけないよ、一護。お前はこの世界でただ一人。けれど時代が進めば仲間も増えるだろう。死んではいけないよ。」
生きていなさい。
長い白髪が寝台に広がり、まるで『父』を病に縫い付けているようだ。『父』のその言葉は願いだった。けれど一護には命令だった。
『父』の魂が体から抜け、目の前には生の力を欠いた『父』の体。広がった長い髪がまだ『父』をこの世に縫い付けて離さぬように見えて、一護は『父』の長い髪を切った。初めて、『父』の命令以外でした作業。
『父』が彼らの言う天国に行ければいいと思った。
それが初めて認識した思考で、願いだった。
『父』が死んでから幾数年。未だに人形師である『父』を尋ねて人が訪れることもあるが、ようやっと『父』の死が世間へと広まったのか、今では年に一人二人、『父』の友人が訪れる程度だ。
壊れても修理は出来ない。自分で直せる箇所にも限界がある。だから、一護はなるべく動かぬようにした。『父』の墓を作り、石に名を彫り、花を添えた。『父』の気に入りの、花。それ以外は動かず、『父』が眠っていた寝台の横に設置された自分専用の椅子に座り、じっと時を過ごした。1日、『父』の墓に花を添えるだけ。陽に当た過ぎれば変色の進む肌のために外出は夜だけになる。『父』の好きだった花たちは世話をせずとも庭に咲き誇る。綺麗だ。美しい。『父』の言葉で花は「綺麗」で「美しい」のだと知った。
「綺麗だ、美しい」
『父』と同じ言葉を口にする。
それだけで花たちは喜ぶように一層鮮やかに咲き誇った。
すると、まるで自分も『父』と同じヒトになれたような気がしのだ。
回り続ける歯車の、辿りつく先に在るものは
人形の館。そう呼ばれる古い館を買い取ることになったのは、研究所を追い出された為だった。
少しばかり先を行き過ぎた研究は周囲に受け入れられず。国お抱えの研究所としてはこうも大っぴろげに律を乱す者をいさせるわけもなく。切り捨てられる前に見切りをつけていた男は簡単に承諾し、今まで自分が研究した成果の権利を毟り取ってから研究所を去った。
追い出されたからと言っても隠居する気はさらさらなく。新しく研究できる場を作ればいいのだとついてきた部下にいい物件はないかと持ちかけた。どのアングルから見ても太陽の当たらぬ室内に籠もって研究に明け暮れる男には見えない屈強な体の部下は探してきますと言ってすぐさまいくつかの場所を元上司に差し出した。相変わらず仕事が早い。
そして差し出された物件の中に、その館はあった。
持ち主の名は浮竹十四郎。100年程前に存在したからくり師の名がどうしてここに出てくるのかがわからない。子孫の持ち主かと思えば、部下は浮竹には子供はいなかったとの事。ではなぜかと問えば。
「遺言というほどの効力はございませんが、館はそのままで、と近くの村長に頼んでいたそうです」
それを律儀に守っていたのかと呆れるが、興味は湧いた。
昔、自分が見たのは猫のからくりだった。
生きているようだ、と手を伸ばせば命のないはずの猫はするりと手から逃れ。まさか、まだ稼動するのかと驚愕した。動きはさすがに鈍かったが、それでもその存在に珍しくも感動した。既に動きを止めた人形たちの内を見て男はさらに驚いた。
100年近く前に作られたのだから、現在のような動力源もなく、集積回路もなく。そこには木で作られた歯車。そして、未だに開くことさえできない黒い小さな箱。これが動力でありからくりたちの思考なのだとわかっていながら、自分も含め誰一人としてその箱を解明できた者はいない。
希代の人形師が住んでいた館。面白い、と館の下見にすぐさま出掛けようとする元上司に部下は重い溜め息を吐き出した。恐らくこれから住むことになるだろう館が一体どれほどの修理を必要とするかを考えながら、テッサイ、どうしたんですと上司に急かされた部下はただいまと答え、枯れ草色の髪を揺らす男を追った。
「もう数十年手入れはしていません」
放置された館は確かに廃墟、といった言葉が似合っている。周囲を雑木林がぐるりと覆っている。陽が沈みかけた今、館は薄暗くひっそりと男の前に佇み。
「でも、想像してたより大分ましですねぇ」
今にも崩れそうな、いやもう大部分は崩れていると思っていたのだが。そこは案内役の村長にも不思議らしく、だから誰もこの館に近づかないのだと恐ろしげに呟いた。まるで御伽噺だと、男は軽く笑みを浮かべて冷酷に言い放つ。その御伽噺に上げられた館には現代の科学でさえ解明できぬブラックボックスを生み出した男が住んでいたのだ。
「人形師の浮竹は幼い頃に両親を無くしておりまして…その当時の村で長老を務めていた者の世話になっていたそうですが、この館を建ててからは村との交流も断っておりまして…。浮竹が亡くなった折にこれだけ立派な屋敷なのだからと、中を整理して買い手を捜そうと村内から話もあったのですが、浮竹の弟子らしき者から遺言が書かれた手紙が当時の村長に渡されたのだと、聞いております」
「浮竹の、弟子?」
「はい、いつから館に住み着いていたのかは、なにせ100年も前の事で、定かでは無いのですが…。浮竹が亡くなってから数年はこの館に住んでいたそうですが、」
「その弟子はどこに?」
「さあ、そこまでは…。既に亡くなってはいると思いますが」
浮竹に弟子がいたなど、初耳だった。もしその弟子が浮竹の人形造りの技を後世に伝えていれば、今もどこかで新たな人形が造りだされているのかもしれない。しかし、それならば、噂の一つも男の耳に飛び込んでくる筈だ。
おもしろい。高揚する頭が心地よく、男は村長に礼を述べて軽い足取りで館の門内へと足を踏み込んだ。もう陽がくれる。明日にしてはと止める長に金貨の入った皮袋を投げて渡した。
カビ臭いな。
埃まみれの館内を歩きながら男は近くの錆び付いた窓を開けた。蝶番のたてる音が響く。閉じこめられた空気は澱み、呼吸を繰り返す度に肺に黒い塊が溜まっていくようだ。数十年廃墟だったわりに内部は整頓されていた。腐った椅子から落ちたのか、数冊本が錯乱しているだけの、打ち捨てられた館。年数が経ちすぎてそのまま使えるようなものはないが、ひっそりと置かれた調度品の質には好感が持てた。蜘蛛の巣が男の頭にかかるほどに多く、歩く度に腐った埃が舞った。
人形師として、からくり師として当時から人気のあった浮竹十四郎。妻も子もなく、生涯を人形に費やした職人の造る人形たちは、からくりがなくともまるで生きているようだと絶賛されていた。しかし、その人形師の館には人形はひとつもなく。作りかけさえない。盗まれたか、全て売り払ったのか。闇に包まれ始めた館内ではこれ以上動くことは叶わず。
灯りを持ってくるべきだったと舌打ちをしたと同時に男は椅子に座る青年を見つけた。
(2008/09改)
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