flog kick05
ひくりと、蛙の目が揺れる。僅かに感じた魔女の気配に、そろそろ痺れを切らす頃かと検討をつけ、やれやれと溜息をついた。
「どうしたんだ?」
耳に馴染みすぎて、もう当たり前みたいに蛙の意識を奪う声。
隣に目をやれば、眉間に皺を寄せた、不機嫌そうな顔つきの少年が一人。
別に、彼は機嫌が悪いわけでなく、これが地なのだと、出会って直に気がついた。まだ若いのに、そんなに顔に力を入れていて、疲れやしないのかと想うが口にしたことはない。顔、というより容姿について触れられるのが一護は好きではないらしい。オレンジの髪から垂れる髪飾りについて尋ねた時だったか。
この間一護に連れていって貰った祭りの時に、邑人たちが皆髪に様々な髪飾りをつけているのを見て、一護の真っ黒な飾りが気にかかった。鮮やかな飾りの多かった中、一護のように黒一色の飾りは見かけなかった。特に何も考えずに、思った事を素直に言った蛙に、一護はそれに対する応えを口にする事はなく。
もしかしたらその鮮やかな髪の色が原因かと、今までの一護の反応を見て検討をつけた。
どうやら、彼は自分の髪の色が好きではないらしい。
蛙は、隣に座る一護を見上げる。とても明るい色。蛙の黄色よりも色合いが濃く、夕陽の朱よりも淡く。仄かに光る蝋燭の火の柔らかさに似ている。短い髪のせいか、ただでさえ明るい髪が、もっと鮮やかに光りを受けている事を、少年は気がついているのだろうか。
「おい?」
「…いえねぇ、いい天気だなぁ、と」
「別に、昨日と変わんねえだろ」
「やだなあ、これだから若い子ってのは…」
「爺むさい奴」
「実際、君から見たらアタシは爺ですからねえ」
そういえば、自分が幾つになったのかを考えてみて、遥か昔に歳を数える事を止めた事を思い出し、すぐに止めた。
そして、気がつく。少しずつだが、記憶の奥にある鍵の箍が揺るんできているのを。
掛けられた魔法が弱まっている、のではなく、恐らくこれは魔女が痺れを切らしたのだと、その表情までも蛙は想像した。
「相変わらず堪え性の無い…」
「何か言ったか?」
「いいえぇ」
変な奴だと口元に笑みを浮かべる少年の顔を見上げる。見上げる、という構図が久し振りな事も思い出していた。
そろそろ、潮時か。
「ねえ、一護さん。アタシを持ち上げてくれませんか?」
それだったらと、もう少しばかり近くで顔を見たいと思った。あの時に見た、吸い込まれそうな瞳を思い出す。
ついでに柔らかな感触まで思い出してしまって。蛙じゃなくて、人の姿だったら良かったのに。
そんな不埒な事を想像して、差し出された掌に乗り、視線の高さが合わさった。
「どうしたんだ?」
「アタシはこの身体と同じ髪の色でした」
「は?」
「覚えていて。滅多にない色だと思うから」
「あんた、どうしたんだ…?」
疑問と、不安の混じった様子の一護に蛙は笑いかける。きっと、一護にはわからないだろうけど、蛙は笑って見せた。
ひょこりと肩に飛び移り、驚く一護の耳元に身体を寄せて行く。くすぐったいと抗議する一護に、まあまあと宥めてみせて。
まるでいつもの事のように何気なく。ぺたりぺたりと手を一護の肩に置く。
そういえば、水掻きがあるのに一度も水に入ることがなかったなと、川を流れる水を見下ろす。
「なんだよ」
動きの少なかった蛙が、突然肩まで跳んできた事に驚き、必死に首を回して蛙を見ようとする一護を、落ちるからと静止する。
「一護さん」
「なんだよ?」
「一護さん」
「だから、なんだよ?」
「次に会ったら、一番最初に名前を教えてあげる」
「え?」
「だから、この色を覚えていてくださいね」
はらはらと解けていく感覚に、蛙はああつまり、こういう事かと、掛けられた魔法を解く方法を知る。
まるで別れのような台詞を言った蛙を見ようと、一護が振り返る前に蛙は首を伸ばし、頬にキスとも言えない、微かな接触をした。
身体の内を駆け回る熱を感じたと思ったら、すとんと身体が重くなった。
「遅いぞ、喜助」
ああ、そうだ。それがアタシの名だ。
開けた視界に飛び込んできた魔女の顔を見つめ、蛙だった男はあの鮮やかな髪の色の少年に教えなければと思った。
それだけを思った。













はらりと舞う落ち葉を見つめ、もうそろそろで冬支度だなと、一護は青く晴れ渡った空を見上げた。時折肌を刺す冷たい風が吹く。この地方では雪は振りはしないが、山を越えて運ばれてくる風の冷たさが厳しい。妹が織ってくれた外套の肩に、乾いた音をたてて落ち葉がついた。払おうと、肩に伸ばした手が止まる。その場所に、自分の肩に乗っていた蛙の姿を思い出し、そっと、崩れそうな落ち葉を摘んだ。植物たちは葉を落とし、動物たちの姿も見つけにくくなった。
蛙がいつも座っていた石は相変わらずだったが、山上から流れてきていた川は、上流が凍ったのか一層細く、小さなものになった。用事も無いのに祠への道へと度々訪れる一護を不思議に見る友たちには、あの蛙の事は話していない。信じてもらえないだろから、というよりも、話す気になれなかっただけだが。
蛙は僅かな間だけ、あの石の上にいた。
随分と親しくなったせいで、もっと長く蛙がここにいたようにも思えたが、実際は短い間だった。元は人間だったという蛙。結局、その蛙について何一つ知らぬまま、蛙は姿を消した。いや、消したというよりも。
そっと、頬に手を当てる。別れの言葉のような台詞を吐いた後、頬に冷たい蛙の体温を感じたと思ったら、蛙は突然一護の肩から飛び降りた。驚いて手を伸ばしたその先にいたのは、黄色い蛙ではなく。
目を見開いた一護の、その瞳にうつっていたのは至って普通の、緑色の蛙。腹を膨らませながらこちらを見遣る蛙を暫く見つめ、動かぬ蛙に声を掛けてみても反応は無く。どうしたんだと、問いかけようとしたところで蛙はげこりと鳴いて草むらへと姿を消した。
蛙に掛けられた魔法が解けたのだという事は、蛙の姿が見えなくなってから気がついた。どうして蛙の魔法が解けたのかは、どう考えても最後の微かな接触が原因だとしか思えず、ではなぜ自分が触れた時には解けなかったのだろうと、一人悩んで。悩んではみたが、わかるわけもなく、結局は放り出すことになった。
蛙は元に戻れた。
つまりはそういう事だ。

蛙が姿を消してから、話相手を無くした事を嘆いてはみたが、日々を忙しく過ごすうちに段々とその記憶も、気持ちを薄れていった。
特異な経験をしたのだと思う事にした。喋れる蛙だなんて、一生見れないと思っていた(見れるとも思っていなかった)のだから、まあいい経験だったと。
ただ、蛙が次がある事を仄めかした事だけは気になっていて。蛙の色だけは、しっかりと覚えていた。


冷たい風を受け、男は首に厚く巻いた布へと顔を非難させた。
中央よりも南に位置する地方ではあるが、やはり冬は寒いもの。城でぬくぬくと過ごしてきた自分にとって、その寒さは懐かしい。
魔女も途中まで付いては来ていたが、お付の少女に呼ばれてそそくさと帰っていってしまった。
男にとってはそちらの方が好都合ではあったが、後でしっかりと報告する事を約束させられてしまい。
なるべくなら、魔女には見られたくないというか、知られたくない事柄なのだが、彼女のお陰で、という思いもあったので、逆らえはしなかった。
細くなった川を見つめ、あの鮮やかな髪の色を思い出し、ふ、と笑みが零れた。
魔女に掛けられた魔法は、目覚める前の記憶を薄ぼんやりとしてしまった以外は上手くいったと言って良かった。
蛙になった感想はと聞かれて、どうにもはっきりとしない記憶に、男は魔女を責めては見たが、彼の人にそれを気にする筈もなく。
明瞭でない記憶でも、鮮やかな髪の色だけは覚えていた。名はなんと言ったか。
顔さえ思い出せない状況に一体どんな魔法を掛けたのかと魔女に問い詰めても、のらりくらりとはぐらかされるばかり。
「誰が己の手の内を見せるか」
貴様も魔法を使う者ならわかっていようが。
高飛車な魔女の物言いに、がくりと肩を落とした男に魔女はにんまりと質のよろしくない笑みを浮かべた。
「あの魔法を解いた相手であろう?それほど気になるのなら、会いにゆけばよかろうが」
「そういえば…あの魔法って結局、キスで解けるんですか?」
「何を今更。しかもな、お主のほうが相手に好意を持っておらぬと解けぬ仕組みじゃ」
「また…そんな」
「負けた者が何を言う。良いではないか。蛙になる経験など滅多にないぞ?それに、お主にとっては好いた相手が見つかって良い事ではないか」
好いた相手。まあ、確かにそうではあったはずだが、はっきりと思い出せないのだからどうしようもないではないか。
そうは想っても口にする愚かさはせず、男は蛙であった時にいた場所を探した。
邑を見つけるのはそう難しい事ではなかった。が、その合間にも魔女に賭けを仕掛けられ、結局その場所を訪れたのは季節が一つ過ぎ去った後になってしまった。
正直、あの時の記憶の大半は靄がかかったように確かではなく、実際に訪れてみてもこの場所であったかと思う程で。
金よりも薄い色の髪が、風に攫われるように靡く。石の置かれた川縁を通り過ぎ、そう遠くない場所にある集落へと視線を飛ばす。
小さくはないが、大きくもない。確か、あそこに櫓のようなものがあったような気もしたが、集落の屋根よりも高いものはない。
そこかしこに穴がある記憶に舌打ちする。厄介な魔法をかけてくれたものだ。
あそこに、いてくれるだろうか。鮮やかな、夕陽よりも淡い朱の色を持つ少年は。
見つけたら、言うべき事は決まっている。
きっと彼はこちらを見て、誰だろうって顔をして。だからにこりと笑って挨拶でもしてやろう。
「こんにちは、一護サン」
彼の驚いた顔だけは、鮮明に瞼の奥に焼きついていた。




















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