祭りが終わり、織姫が領主の館へと働きに出る事になった。
結局、啓吾は彼女に何も言えずに見送るだけとなり、一護は別れの時に織姫に言われた言葉に戸惑っていた。
好意を、伝えられた。
細い肩を見下ろしながら、告げられた言葉に困惑している一護を、織姫は小さく笑って先ほどの言葉を打ち消した。
ごめんね。そう謝った彼女に、一護が何も言えるわけはなく。
ただ、元気でなとありきたりな言葉を掛けてやることしか出来なかった。
それ以外に、どんな言葉をかければよかったんだ。
「君は、優しいね」
「…優しくなんかねーよ」
寂しそうな笑顔で、邑を去っていった彼女の細い肩が震えていたのに、一護は何も言えず。
「もう去ってしまった子の事で、心を締め付けてる。アタシからしたら、君は優しすぎるよ」
定位置になってきた石の上で、蛙はぺたりと手足を広げ、隣の一護を見上げる。
こうして、並んで座って、一護の話を聞く蛙は、自分は人間だったという事しか覚えていないらしい。
名前も、歳も、住んでいた場所も、思い出そうとしても表面には出てこないのだと、蛙は言った。
「表面、ってつまり思い出せないって事だろ?」
「うーん、思い出せないというより…難しいな。記憶が無くなっているんじゃなくて、取り出せなくなっているというか」
「取り出せない?」
「そ。箪笥の中にそれが入っている事はわかっているんだけど、鍵が掛かっていて開かない感じ、かな?」
「お前、箪笥に鍵なんて掛けてんの…?」
「そういう事じゃなくてね…」
名前はあるけど、わからないという蛙を、ではどう呼べばいいのか困りはしたが、別にお前やあんたで事足りた。
記憶が無い事を不安には思わないのかと聞きたかったけれど、蛙は飄々と自然を満喫しているらしく、どうにも聞きづらかった。
一護の服を乾かした、あれは魔法だと言った蛙に、では魔法で元の姿に戻れないのかと疑問をなげかけてみたけれど、器が小さいとか、制御がかかってるとか、どうにも理解し難い蛙の言葉に
つまり対した魔法は使えないんだなと結論付けた一護を、蛙は苦い顔で(多分)見上げた。
祭りが近づくにつれ、仕事は増えていったが、蛙が気になる一護は何かと抜け出す隙を見つけては、一番最初に会った川縁に来ていた。
蛙は移動するでもなく、定位置となった石の上にいつもいる。小さいから、何か他の動物に襲われはしないのかと聞けば、たかが動物に食われませんよと蛙らしからぬ答え。
祭りの日には、一護の腰袋から顔を出して周囲を見回していた。事ある毎に、あれはなんだとか、どういった用途に使うのかと聞かれ、誰にも聞かれぬように答えを返すのは一苦労だった。
「まだこういった因習が残ってるんスね」
「因習?」
「といっても、代が変わる毎に意味合い変えちゃってるみたいですけど…この祭り、昔は人身御供する時行われてたんスよ?」
「人身…、成人の祭りじゃなかったのか…」
「だって、ほら。あの櫓の造りとか、」
「勘弁…」
蛙はとても物知りだった。まるでその時代を生きて、その場面を見てきた事があるかのように語る蛙に、一護は思い出せないとわかっていても、なんで知っているのだと聞いてしまう。
その度に、蛙は少し黙って、アタシは君より随分長く生きているから、とどうとも読めない声で言うのだ。
蛙が、ただの人間ではなかったのではと思うのはそんな時。魔法だって使えるのだ。もしかしたら、一護が考えているよりもずっとずっと年上なのかもしれない。
どこか達観している物言いは、邑のお年寄りみたいだ。だから一護は、同年の友には言えない事を蛙に話す。
彼女の事も、だから言えたのかも知れない。
「俺はさ…アイツの事、あんま知らないんだ」
「…」
「同じ邑にいてさ、いつも、おはようって言ってきてくれて…。だけど俺は何も思ってなくて…」
「…ほら、君は優しい」
「どこが、」
「それに気がついてないのが、君の優しさだろうね」
「お前の言ってること、全然わかんねえよ…」
地面を見つめたままの一護を見上げ、蛙はひょこりとその視線の先に移動してきた。
黄色い蛙は、緑色の目をきらりと光らせて一護を見上げ、ぐぐと喉を鳴らした。蛙らしいその仕草が何故か可笑しくて、小さく噴出す。
「あんた、ますます蛙っぽくなってくるな」
「…そうスね。いずれ、本当に蛙になるかもしれない」
「え、まじで?」
視線を逸らした蛙に不安が湧き上がる。魔法について、一護は無知だ。
じわじわと蛙そのものになる事なんてあるのだろうか。この蛙と喋れなくなる事を想像して、驚く程動揺している自分がいた。
元は人間だという蛙。もしかしたら、一護には見せないだけで、本当はとても不安なのかもしれない。
人間とは全く違う姿にされて、どこかも知れない場所に連れてこられて、過去を思い出せないまま。
それなのに、自分なんかの話をずっと聞いてる。蛙は一護の話を面白いと言ってくれるけれど。
「なんか…方法とか、ねえの?」
「無い…ことはないんですが」
俺に出来る事とか、ないのか?
何を考えるでもなく、ただ純粋に蛙の役に立ちたいと思った。
掛けられた魔法を解く方法を考えてはいると言っていた蛙が、ここ最近はその事に触れてこない事を思い出して、さらに不安が募る。
だから、縋るようにこちらを見上げてきた時、何でもやろうと思った。けれど。
「じゃあ、アタシとキス、できます?」
予想とはかけ離れた懇願は、一護の思考と行動を全て止まらせるには十分な威力を持っていた。
蛙は少しばかり、そうほんの少しばかり彼をからかってみようと思った。
もういなくなった少女に、意味合いは違うけれど思いを馳せる一護が面白くなかった。
一護が、というよりも、今の状況が全く面白くなかった。
蛙の自分に興味を持った少年が、その蛙に会ってから初めて、他人を意識している。
それが、気に食わない。それが嫉妬だとか、独占欲だとか。
あまりにも久し振りの感情で、気づけはしなかったけれど、どうやら自分がこの少年を殊のほか気に入っているらしい事は自覚していた。
だから、少しばかり、そうほんの少しばかり彼をからかってみようと思った。
真剣に自分の事を憂えている優しすぎる少年の、その優しさに付け込んだ。
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