蛙はただそこにいた。
勿論、蛙は普通の蛙ではなく、自分が人間である事を知っている。
まさかこの姿にされるとは予想外であり、己の黄色い小さな手を見た時は久し振りに驚いたものだ。
面白いと思った事なら長年の親友でも実戦するのかと、呆れもしたが、まあ長い人生、蛙になるのも悪くはないかと思う事にする。
低い目線も新鮮で、何もかもを見上げなければならない体験に暫し夢中にはなったが、そろそろこの魔法を解く鍵を探さなくてはならない。
気がついた時にいた場所からそう離れてはいない場所にあった川へ移動し、はてさてどうしたものかと思案してみる。
試しに幾つか言霊を放ってはみたが、変化なし、効果なし。
普通に喋れはするが、この小さな身は以前の自分とは異なった器のようだ。
魔法が使えない状況で、どうにか人間へと戻る方法。
ありきたりではあるが、もしかしてキスとかそういう事かと、自分の考えに笑いが込上げるが、あの人ならやりかねないなと思い直せば真顔に変わった。
今の自分は、蛙だ。
しかも黄色い蛙だ。
まさか道端にいる蛙を拾って御伽噺のように口付ける者がいるとは思えず。
また難題を出してきたものだと、少々困惑している所に、この身になってから初めてである人間が現れた。
目が合った、と思うのは恐らく蛙だけだろう。まだ少年と呼べる人間はこちらを見て、しかし足を止める事無く通り過ぎて行った。
鮮やかな髪の色に、思わず感嘆の声が漏れるが、身体も小さいのだ。声も小さかったのだろう。少年は振り返る事なく去っていく。
派手な色だと、自分の事は棚に置いといて、少年の鮮やかな髪を記憶に残した。
今の季節、雨季から抜け出そうとしているこの季節の晴れ間が一護は好きだ。
雲の重さから覗く光りとか、雨上がりの匂いとか。
一護の仕事は急ぎではないし、今邑に戻ってもどうせ啓吾の騒がしい悩みを聞かされるだけだと思えば歩みも遅くなる。
少しくらいいいだろうと、周囲の景色に意識を飛ばしていた所に、声をかけられた。
「ちょっと、そこの君、」
一護のいる小道は、木が繁っているといっても見晴らしが悪いわけではない。けれど、一護は自分にかけられたであろう、声の主を見つけることはできず。
「した、した」
何度か周囲の景色を往復していた所に、なるほど、確かに言葉の通り下から声が…。
「……蛙?」
「そう、蛙」
「う、ぉ、」
黄色い蛙を視界に入れて、いやまさかなあ、と呟いた声に返ってきた声は。
まじまじと、石の上に座っている蛙を見詰め、周囲に人がいない事を新たに確認して、もう一度、蛙に視線を戻す。
小さな蛙だ。ちょっと見た事のない色をしているけれど、掌に簡単に乗ってしまうような蛙だ。
「君、ちゃんと聞こえてる?」
小さな身体に似合わず、落ち着いた低音。それに、言葉の発音がとても綺麗だ。中央の都市から来た商人の発音に似ている気がする。
ひょいと蛙の足を掴み、腹の裏を覗いてみる。内臓まで透けて見えそうな白い腹だ。
「別に、作り物とか、悪魔とかじゃないっスよ?」
片足を摘まれ、ぶらりと宙に浮いたまま、蛙は冷静に一護が思っていた事を言い当てた。
「…蛙?」
「だから、蛙。さっきから言ってるじゃないっスか」
「うおぉ!?」
唐突に、今自分が手に持っている蛙が気味悪く思え、反射的に掴んでいた足を離してしまった。蛙はそのまま浮いたり、跳んだりする事なく当たり前のように地面に落下して、ひっくり返った。
うぅ、と呻き声を上げて、蛙は以外に速い動作で、一番最初に一護に声を掛けてきた位置へと戻っていった。
「蛙の大きさ考えてくださいよ。あんな高さから落として…潰れちゃったらどうしてくれるんですか」
「あ、わ、悪い…?」
ぺちぺちと、水掻きのある小さな蛙の手が、身体のどこにも不備がないのを確認するように上げ下げされている様を呆然と見詰めながら、ようやっと、今の状況を理解するに至る。
「な、なあ…あんた、蛙?」
「だから、さっきから言ってるじゃないスか。蛙だって」
「いや、だって蛙って普通喋らねえだろ…?使い魔、なわけじゃないのか…?」
「悪魔に使役されてる蛙?そんなの見た事も聞いた事もないっスよ」
あたしは今は唯の蛙ですよ。
蛙の表情なんてわからないけど、声の調子から、少し呆れたような雰囲気だけは感じ取れ、馬鹿にされてるようで一護は顔を顰めた。
動物ではなく、かといって人間ではない存在を、人は昔から妖精だとか、悪魔だとか、違う呼称で呼んではいたけれど、大多数の人間がそれらの存在を信じてはいなかった昔。
魔法使いと呼ばれる人たちが姿を現してからこの世界は昔とは大分様子を一変させたらしい。
一護の祖父の、そのまた祖父の代よりも昔の事だというから、魔物も妖精も魔法使いでさえも信じられていなかった時代というのが、一護たちには信じられなかった。
それくらい、人とは違った存在が馴染んでいるこの世界でも、一護の住む辺境の地では彼らを見る事は稀だった。
一番最初に姿を現した魔法使いはまだ生きているらしく、今はお城にいると言われているけれど定かではなく。しかし、それほど彼らは長く生きているらしい。
一護も、お伽話とか、旅人達の話から聞くことはあったけれど、実際にその目で見たことはない。一度位は会って見たいと思っていたけれど、今目の前にいる蛙はそういう類ではないと否定するのだ。
「いや、だって蛙は普通喋らねえだろ?」
「まあ、今は普通の蛙なんですが。ちょっと前まではきちんとした人間でしたよ?」
石の上にいる蛙と目線を合わせるのは難しい事だが、なんとなく距離を縮めようと隣に腰を下ろしてみたが。何度見ても隣にいる蛙は唯の黄色い蛙にしか見えない。
喋っていると思っていたけれど、よく見ると口は動いていない。どうやって声を出しているんだと聞いてみたら、ちょっとしたセイシンカンノウみたいなものじゃないッスかと
耳慣れない言葉を言われ、それについても質問をしようとしたが、先ほどの小馬鹿にされたような口調を思い出し、それは踏みとどまった。
そう騒がずに隣に座り込んだ一護をしげしげと眺め、蛙は感心したように目を見開いた。
「君、結構肝が据わってる。蛙が喋るの、可笑しいって思ってるんでしょ?なのに隣に座るの?」
相変わらず蛙の口は動いていない。奇妙な感じはするが、慣れてしまえばそう気になる事ではない。それに、蛙は小さすぎて口が開いていようが閉じていようが一護にはよくわからない。
「ここらへんじゃ珍しいけど…喋る猫とか喋る犬とかいるんだから、蛙も喋っていんじゃね?」
元は人だというのだから、もしかしたらこの蛙は魔法を使われてこんな姿なのかもしれない。実際に一護は見た事がないが、そういう者達がいる事を知っている。
知っているだけだけど。
「知ってるからって、ねえ…。見たことは無いんでしょう?変なものだとか思わないの?もしくは、使い魔じゃないって、アタシが嘘ついてるとか」
「え、そういうのもありなのか?」
「いや、ありとか、なしとかじゃなくて…」
蛙は人が困った時の仕草みたいに、額に手を当てた。身体の規格は違っても、そういう仕草は出るらしい。
不思議なものだと、覗き込むように顔を掲げて、初めて蛙の瞳が綺麗な緑色だと気づく。
「お前、目の色が蛙の色なんだな」
「…うーん、会話が噛み合わないなぁ…」
きらりと、木の葉の隙間から差してくる光りに反射して、緑の瞳がガラス玉のように光る。やはり、蛙の表情はわからない。
「ここら一帯は、君みたいな子が多いのかな」
「俺?」
「なんというか…物怖じしない?」
ひょこりと飛んで、座っている一護の目の前に移動した蛙はじとりと大きな瞳を向けてきた。
「普通気味悪かったら、逃げたり殺そうとしたりするでしょ?それよりも好奇心が強いみたい…ここら辺で、アタシみたいなのって見たことはある?」
「ここら辺は外れも外れだからな…魔法使いどころか、使い魔も見たことある奴いないんじゃねえ?」
ひょこりひょこりと一護の足元に近づいてきた蛙は、ふむと頷いて、一護の靴に手をかけた。
先ほどの雨で濡れたままだった靴は泥で汚れ、決して綺麗とは言えない。汚れるぞ、と言うはずだった言葉は、口から出ることなくそのまま飲み込まれる事になった。
熱い風が吹いたと思ったら、つい先ほどまで、濡れて身体に張り付いていた服の感触が無くなっていた。ついでに、歩く度にぐちゃりと音を立てていた靴も綺麗に土の取れた状態で。
「あ、これくらいなら使えるんだ」
にぎにぎと小さな手を確認するように動かす蛙を、一護は唖然と見下ろす。今、蛙が何をしたのかが理解できず、なぜか乾いてしまった(しかも綺麗になってる)己の服を確認して、再び蛙に視線を戻す。
にまりと、蛙が笑ったような気がした。
「魔法見るのも初めて?」
蛙は、とても楽しかった。
中央でもなかなかお目にかかれない色素の髪も目に楽しいし、何より少年のきらきらと光る瞳が気に入った。
好奇心の塊みたいな、茶色い瞳。蛙の身でも使えた魔法に驚いて、大きな瞳をさらに見開いて、零れてしまいそうだと可笑しく思った。
長い刻を生きてきて、最近では見かけなかった好奇の瞳。蛙に変わった身についてはどうしようもないが、飛ばされた場所については魔女に感謝さえしたいと思った。
魔法は使えるが、やはりいくつか制限を受けている。魔力を受けいれる器がこの蛙にはないから仕方のないことだ。せめてもう少し大きな動物にしてくれたら、そうは思ってもあの魔女の事。
己が困る事を喜んでやるのだから、その目論見は成功したと言ってもいいだろう。
少しばかり複雑に掛けられた魔法の解き方を考えながら、少年と他愛のない会話をする。
瞬く程の時間を生きる人の少年。暫くは飽き無そうだと蛙は喜んだ。
戻る