フォルテッシモ
なんだろうこれ。

そう思って、手にとってみたそれは連弾用の楽譜。可愛らしいキャラクターが描いてある表紙。こんな楽譜は久しく見たことがなかったと、物珍しさから手に取った楽譜の後ろを見ると、小さな、これまた可愛らしい字で。
『黒崎遊子』
ここの生徒さんの忘れものかしらと、なんとなしにパラパラと捲ってみれば、先生の言葉と、子供が自分で書きこんだのか「ここはゆっくり!」やら、「静かに」なんて。自分にもこんな時代があったかと思い起こしてみるが、嫌なことばかり思い出しそうで、早々に放棄した。
カタン、と蓋を開けて楽譜の音符を追ってみる。人差し指だけで弾けるくらい簡単な、初心者用の楽譜だ。誰もが耳にした事のある曲に、珍しいことに楽しくなってきた。いそいそと椅子に座り、楽譜をたてて、手首をまわして。鍵盤に、静かに指を置いた。












「あの・・」

声を掛けられるまで、結構な時間弾いていたのだろう、窓から見える空は暗くなりはじめていた。はた、と手を止めて、声をかけてきた小さな少女を見詰める。重いドアを全身を使って開けたのだろう、ドアにもたれかかる様に立っている少女は、妙に瞳を輝かせてこちらを見つめていた。ああ、ここの生徒さんのレッスン時間なのかと思い、椅子から立ち上がろうとすると、少女は綺麗な眼差しで興奮したように喋り始めた。

「あの・・!!ピアノ、とってもお上手ですね・・!!」

私、とっても感動しました!と言葉を飾ることなく、素直に感情を伝えてくる少女を、眩しいなと思う。それに、ゴテゴテと評論を上から述べてくる彼らの賞賛なんかより、ずっと気持いいし、嬉しいなとも感じる。小さな観客は今思い出したように、男に小さな手で一生懸命拍手を送り始めた。ふっと、腹から込み上げてくる笑いに耐えられず、思わず吹き出してしまえば、少女は恥ずかしそうに俯いてしまった。耳に心地よく届いた拍手も、なくなってしまった。

「ああ、ごめんね。笑っちゃったりして。あんまりにも可愛くて・・」

拍手も賞賛の言葉にも興味がなかった筈なのに、この小さな少女からの拍手はちょっと嬉しかった。だから、もう一度あの綺麗な瞳を見せてくれて欲しくて、椅子から立ち上がり少女の前で屈んだ。

「アタシのピアノ、気に入ってくれたの?」

「はい!あの、すごく綺麗で、先生よりずっと上手で・・!あ、でも弾いてる時に声かけちゃってごめんなさい!」

「いーえ?別に構いませんよ?」

頭を下げてきた少女に、本当に気にしていないことを告げるのに、精一杯の笑顔を浮かべてみる。こんな風に、相手を気遣う顔なんて久しぶりだな、なんて思いながら先ほどまで見ていた楽譜を手に取る。顔を真っ赤にして、男を見ていた少女はあ、と声を上げて男の手元にある楽譜を指差した。

「それ、私のです!」

きょとん、と少女を見遣った男は、ああ、この楽譜はアナタのでしたか、と少女に向かって楽譜を差し出した。

「えーっと、黒崎、遊子、さん?勝手に借りててごめんなさいね?」

「そんな!こちらこそ、勝手に弾いてる所に入ってきちゃってごめんなさい。」

楽譜、持っててくださってありがとうございます。と見た目に似合わない丁寧な口調でお礼を言われて、いい子だなあと、思わず少女の頭を撫でた。

「じゃあ、今度は忘れないようにね」

そう言って、ドアに向かおうとした男の袖を、小さな手が引き止めた。

「あの・・・・!」















最近、妹の機嫌がいい。特に、ピアノ教室から帰ってきた日は一護が奇妙に思うくらいニコニコと常に笑顔を振りまいているのだ。そう、怖いくらいに。あの親父でさえ軽く押される程の凄みを持って、遊子は今台所で鼻歌を歌いながら晩飯を作っている。夏休みも残すところ後半分になり、そろそろ小学生は長い休みに飽きはじめた頃だが、むしろ遊子は日を増す毎に浮かれてる気がする。一体何があったのかと、夏梨に聞いてみても。

「なんか、かっこいいピアノの講師が教室にきてるんだってさ。それであんな調子らしいんだけど・・・」

よっぽどいい男なのかねえ、と溜息混じりに言う夏梨の言葉に、一護はショックを受けていた。
あの、いつもべったりと後ろを付いて歩いてきた妹が、誰かに好意を持った。その事にショックを受けている自分にもショックだ。驚きの表情で固まった兄を呆れた目で見遣り、もう一人の妹は、髭には内緒にしといて、アイツが知ったらうざくなるから、と冷たいお言葉。なんだか、ちょっと寂しい気持の兄は、悲しい気持でその日を過ごした。






夏の初めに出会った、小さな少女とこうして毎週ピアノ教室で出会っている事を知り合いが知ったら何と言うだろうか。そういう趣味だったのかと、嫌な顔が面白そうに言っている姿を思い浮かべてしまい。もう考えるのは止めようと、すぐさま思考の波から現実に戻った。

「それでね、浦原さん、お兄ちゃんがね・・」

ソファに座って、少女は楽しそうに家族の事を話してくれる。陽気な父と、冷静な妹と、そして少女が一番多く話してくれるのが優しい兄の事。オレンジ色の髪の毛で、頭がよくて、喧嘩も強くて、優しくて。誇張している部分もあるだろうが、自慢の兄を話す少女の嬉しそうな顔にこちらの心も晴れる。腹の探り合いが多い知り合いばかりなので、こうして何も飾らずに感情を伝えてくる子供と会うと、ほっと一息がつける。自分をイイ人だと思っている少女に、なんだか悪い気もあるが、週に一回、このピアノ教室を訪れるのを楽しみにしていた。少女の兄を見たことはない。ずっと話で聞いてきただけだが、あまりにもたくさん少女が話すので、まるで知り合いのように浦原の心の中にその名は刻まれていた。
黒崎一護。
彼は、この少女のように暖かな微笑みを携えているのだろうか。




レッスンに遅刻すると、慌てて飛び出していった妹の後に、一護も出かけようと玄関へ向かうと、そこにピンクの月謝袋が。拾いあげてみると、中身が入ってる。慌てて出て行ったせいで落したのかと思い、そのまま鞄の中に入れた。どうせ向かう先の途中に遊子の通っている教室があるから、届けてやろうと思ったのだ。使い古したスニーカーを履いて、立っているだけでじっとりと汗が噴出す程の熱さの中、一護は強い陽射しを遮るように手を掲げた。




冷房の利いた室内は肌寒く、外とのギャップに体は変な感じ、と浦原に訴えてくる。この音楽教室に来たのは、友人がここで講師をしていたからだ。友人、というほどでもなく、昔何度か仕事を共にしただけの仲だけど。そいつが久方ぶりに一緒に仕事をしようと誘いの言葉をかけてきたのを、暇だし、いいかと引き受けたのが数週間前のことで。

「どうせ引きこもっているんだろう。だったらこっちに来てくれないか?」

そう電話口で言われて、そういえばどれくらい外に出ていないのかを思い出した。確かに、これじゃあヒキコモリだ。わざわざ友人が住んでいる街に行くのは億劫だったが、その時の自分は機嫌がよかった。だから、ここに来てみる気になったのだ。
ひやりとした空気が、頬を撫でる。防音設備の整った教室は、耳が可笑しくなったのかと思うくらい音が遠くに聞こえる。かすかなピアノの音、ヴァイオリンの音、ああ、だれかフルートも吹いている。こどもたちの拙い演奏は、意外と耳に心地よく響いた。音を外して、甲高い音を立てる子もいるが、不快には思わない。むしろ、笑いが漏れるような、そんな感じ。
いつも少女がいる部屋に向かうが、中を覗いてみると、どうやらまだレッスン中。先生の指導を一生懸命に聞いている姿を見て、小さくがんばれーと声をかけた。少女が終わるまで、待っていようと入り口付近のソファに座り込み、青い空なんかを眺めてみる。無意識のうちに、煙草に伸びていた腕を下ろし、たまにはこんな日もいいかと目を閉じた。




自動ドアが開くと肌に冷たく心地のよい風が吹き付けた。少し冷房が効きすぎな気もするが、体はすぐにその温度に馴染んだ。受付の人にでも渡そうと見渡すが、誰も見つけられず。さて、どうしたものかと防音室の並ぶ奥へと歩きだした足が止まる。

白いソファに、長い足を投げ出したスーツ姿の男。

音楽教室に不似合いな気もするが、膝の上に組まれた指を見て、もしかしたらピアノをやってるのかもしれないと思った。遠くから聞こえるピアノの音を子守唄にでもしているのか、こくり、こくりと伏せられた頭が揺れた。その男の前を、なるべく音を立てないように通り過ぎ、奥の部屋を覗きこむ。難なく妹の姿を見つけるが、レッスン中に声をかけるわけにもいかず、少し待つかと、もう一度ソファの前を通りすぎようとした。
振り返った先で、目が覚めたのか、呆けた顔で正面を向いている男の姿が。このまま立ち止まるのもどうかと思ったので、そのままゆっくりと進むと、男が気がついたのか、こちらを向いた。凄い、目だと思った。日本にいてはお目にかかれないような、綺麗な翠。薄い金髪のような髪から覗く目に見詰められ、たじろぐ。

「ど、どーも・・?」

疑問系になった挨拶に、ああ、失敗したと思った。
しかし、男はきょとりとこちらを見詰めたあと、にこ、っと音がなるような笑顔を浮かべ席を立った。

「こんにちは。・・君、もしかして黒崎、一護くん?」

「え?!あ・・そう、ですけど・・・」

長い足だと思った通り、男は一護より一つ頭背が高い。すっと、立ち上がっても絵になる。何で知ってるんですかと疑いの眼差しを向けていたのだろう。男は困ったなあ、という笑みを浮かべて、先程一護が覗いた教室を指差した。

「黒崎遊子さんの、お兄さんでしょ?妹さんからお話、聞いてますよ」

「遊子から・・・?あ、アンタが遊子がピアノ教えてもらってるって言ってた講師の・・・?」

「恐らく」

よろしく、と手を出され、慌てて手を差し出せば、両手で優しく包まれた。綺麗な、手だ。あまり日に焼けていない、白くて、長い。でも女性的とは違う美しさ。ピアノやってる人の手って、こんななのかと、自分の手を比較して見詰めていると、よくみせてくれるように掌を差し出された。

「触ってみてもいいですよ?」

「え、や、そんな・・」

いいですと激しく顔を振れば、たまりかねたような笑いが男から漏れる。頬が熱くなる。恥ずかしいことをしてしまった。すいませんと謝れば、何がですか、と不思議そうな顔。

「いえ、あの・・・。あ、ぴ、ピアノをやってるんですよね?」

何当たり前のこと聞いてるんだ俺!と心の中で突っ込むが、男は気を悪くした風でもなく、ええ、と軽く頷いた。

「妹さんのレッスンが終るのを待ってるんですが・・・。少し、お話しません?」

男が右手に持った白い手袋が、妙に目に付いた。














熱さのピークが過ぎ、時折夜に涼しい風が吹くようになった。生ぬるい風に混じる涼風を求めて一護は赤く染まった空の下へと歩き出す。この時期になると夕刻は大分過ごし易い。夕飯の七時近くになるが、今日はピアノのレッスンで遊子が遅れた為、夕飯の時間も少し遅れている。
手伝おうかと申し出る前に、携帯の甲高い音が鳴った。その音を聞いて、もしかしたら夕飯に遅れるかもしれないと一護は携帯画面に表示された文字を追った。数分後、妹たちに少し出てくると声をかけ、履いた靴のつま先を地面で叩く。待ち合わせ場所は遊子の通うピアノ教室。
この時間帯になると訪れる生徒たちはみな一護より年上の大人たちばかり。仕事帰りや、部活帰りの高校生に交じって一護は教室の一番奥、グランドピアノに場所を取られた部屋を訪れる。











ピアニスト浦氏と高校生一護の出会い編。











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