隊長と子供
煩いと、一瞥すれば子供は静かになった。名はなんと言ったか。聴いた憶えはあるのだが、脳に刻まれなかったようだ。珍しい髪の色をした子供は、以前浦原の下にいた男の残し種。
なぜ、自分のもとにこの子供を残していったのか、男の真意を測れない。現世にも、この世にもすでに存在しない男に問うても応えは返ってはこない。大きな瞳を不安げに揺らして見上げてくる、小さな子供。表情が凍ってしまったように、変化しない男。
残されたのは、一人の隊長と、一人の子供。

















そういえば、しばらく子供を見ていない気がする。その事に気がついた時には、子供はすでに瀕死の状態だった。餓死させる気かと、白髪の同朋に責められても自分の心は動かなかった。腹が減れば、自分で食料を手に入れればいい事。それをしなかったのは子供自身が死にたいと思っていたのだろう。それだけだ。
そう告げた瞬間、頬を強い力で殴られた。
「あの子供がどれだけ幼いのか、お前が知らないのか」
改めて、子供を見る。細い、細い腕。足。げっそりとこけた頬。栄養の行き届いていない体。色の無い顔。抉れた腹。浮き上がる骨。死人のような、子供。
「それだったら、君が育てればいい」
アタシに子育ては向いてないという事がわかっただろうから。去ろうとした浦原の羽織を掴んだのは、小さな手。白い羽織と、同じように白い手が浦原を求めた。





もう暫く、共に過ごせ。
自信も病弱な癖に、他人の事ばかりを気にかける同胞に呆れながら、浦原は子供の不可解な行動について、考えた。わかるわけがない。死の淵からから戻ってきた子供は、相変わらず色の無い顔をしていた。顔の白さを隠す髪も、色彩を落とし、抜けた痕が醜く残っている。栄養が足りていない子供の体に必要なのは。食べ物を目の前に並べると、子供は餓鬼のように食いついた。これで平気だろうと、子供から目を離したが、何日間もの絶食状態の胃に突然固形物を掻き込んだ子供は全て戻していた。先ほどよりもぐったりと力のない小さな体を見下ろして、浦原は静かに佇んでいた。この子供は本当に生を望んでいるのだろうか。どんどん死へと向かっていく子供。ならばいっそ。
まだ幼い体に苦痛は辛いだろうと、腰に携えていた刀を鞘から引き抜いた。鈍い光を放ち、姫の名を持つ刀を子供の体に突き刺そうと引くが。子供は吐瀉物にまみれた手で、死を招く衣の裾を握り締めていた。汚いとは、思わなかった。ただ、小さな手だと思った。






子供に与える食事を、部下の男に頼んだ。胃を刺激しないものを、と告げると粥が出てきた。再び、子供の前に置くが既に自分で食事をする力すら残されていないのか。子供は虚ろな瞳で寝たままだった。仕方ない、と蓮華に粥を掬い、子供の口に持っていこうとするが、粥から昇る湯気をみて、ああ、これでは熱いかと少し冷ます。温い、というよりも冷めた粥を口の前に持っていくが、子供の小さな唇は結ばれたまま。蓮華を持つ手とは逆の手で子供の唇を開く。かさかさと、乾いた唇が指にあたる。
小さな歯はまだ生えきらぬのか、それとも栄養が足りていないせいかぼろぼろと穴が開いていた。蓮華から指で掻き込むように子供の口の中へ粥を運ぶ。どろりとした粥が子供の舌を流れて奥に辿りつくと、こくりと、小さな喉が上下した。飲みこんだと思った瞬間、子供は激しく咳き込み粥のほとんどを吐き出した。
手間のかかる。冷めた粥を口に含み、小さな頭ごと掴むように子供の顔を仰向かせた。小さな唇を覆うように唇を合わせ、舌を使ってゆっくりと子供の口内に粥を流し込んでいく。こくり、こくりと動いていく喉をみて、口を離せば子供は次を欲しがった。まるで雛に餌を与える親鳥のようだと冷めた頭でその図を想像したが、粥をせがんでくる子供の手に、浦原は意識を雛のような頭をした子供に向けた。











小さな子供が少し大きくなった。それでもまだまだ小さいのだが、今では浦原の腰あたりに頭がある。そうか、子供は成長をするのだと、何年かぶりに思い出した。
子供の食事に関しては、全て部下に任せた。ひとつの研究を開始すると他の事にまったく目を向けなくなる自分に毎日の子供の世話などできるはずもなく。子供が餓死しかけるのを防ぐために、一人の部下を子供にあてた。小さな子供が巨躯な男に抱きかかえられている姿は妙なものだが、どこかしっくりとくる。
そういえば。子供の父親も体が大きかった。あの子供は、あの男の事を覚えているのだろうか。





久方ぶりに、屋敷に戻るとぱたぱたと勢いよくかけてくる子供の姿。ふっくらとした頬に朱が混じっている。子供はもう餓鬼ではなかった。浦原の傍まで駆け寄り、子供は唐突に立ち止まった。あと少し。腕を伸ばせば触れる距離。何か言うことでもあるのかと子供を見下ろすが、蜜柑のような色の髪が子供の顔を隠してしまい。表情は伺えない。何だ、と問うても子供は静寂を保ち。
用がないのなら、と立ち去ろうとするとぐ、っと引っ張られる感覚。小さな、けれど幾分ふっくらした手が白い羽織を掴んでいた。よく掴む子どもだ。大きな瞳で、ひたとこちらを見詰めている。ふと、その髪に触れてみたいと思った。柔らかそうな髪質だと思い手を伸ばす。体を大きく震わせた子供の仕草に、手が止まる。慌てて、といった様子で裾を掴んでいた手を離し、体の後ろへと回した。恐れと期待の混じった瞳。手を伸ばしても構わないのだろうか。動こうとしない子供の様子に了と得て、そっと、その鮮やかな髪に触れた。あちこちに跳ねた髪は、浦原の手に馴染んだ。何度か、撫でるように髪質を調べていると、子供が小さく震えていることに気がついた。下を向いて、手を握り締めて大人しく浦原の手を甘んじている子供。今度はなんだと、髪から手を離す。頭を触られるのが嫌だったのか。膝をつき、子供と目線をあわせれば。溢れる涙、というものを初めてみた。とめどなく子供の大きな瞳から流れる涙は顔を伝い、子供の服に染みをつくり、足元に雫を落とした。
さて、どうしたものかと途方にくれていると、遠くから巨躯な体からは想像できない軽やかさで部下が駆け寄ってきた。少し目を離した隙に、申し訳ありません。謝る部下の太い足に子供は全身で抱きついていた。
少し、気に食わない。







子供の霊力が高いことには、初めて見たときから気がついていたが。まさかこんなに幼いうちに始解するとは。浦原でさえ持て余しそうな巨大な抜き身の刀身。鞘はなく、刃を隠すのは柄に巻かれた布のみ。自分で持つことも、支えることもできない巨大な斬魄刀。力を制御できていない証だとも思ったが、これが一番抑えた形なのだと読み取った時、子供の力の巨大さを知った。
死にそうな子供が得た力は、世界を変える力。浦原は、子供に明確な興味を持った。朝餉の支度をしている子供、屋敷を掃除する子供。文字書きを習い、歴史を学び。学院生に負けぬ回転の良さを見せる子供。面白い、と、初めてその言葉を意識に浮かび上がらせた。










小さな子供の名前を、一護だと覚えたのは、何年前のことだろうか。餓鬼のようだと思っていた子供は、大きくなった。それでもまだ浦原の背には追い付かなかったが、まだまだ成長途中だ。これから先追いぬかれることもあるかも知れない。一護、という名の子供は、浦原とずっと共にいた。保護者、としては最低だった思うのだが、それでも一護は浦原の傍を離れなかった。離れようとするたびに、離されようとするたびに、子供はその小さな手で、浦原の羽織の裾を掴むのだ。懐かれたものだと、馴染みの女に言われたが、子供は決して浦原に甘えることはしなかった。会話も、あまりした記憶がない。それなのに、子供は浦原以外の者と住むことを拒否してきた。舌足らずな口調で、「うらはら、」とだけ言うのだ。
望みも、我侭も。浦原は聞いた事がない。ついでに、笑った顔も見たことがない。以前、遠くから友人と思しき者達に囲まれて、笑みを浮かべている一護を見た事があった。ああ、あの子供も笑うのだなと思ったら、腹の底から何かが湧き上がってきた。なんだこれは。落ち着かない。沸々と沸き起こる、怒りにも似た感覚。その日の自分は最悪だった。だから、自分はあの子供の笑みが嫌いなのだろうと思った。思う事にした。あまり帰らない屋敷に戻った時、大きくなった子供が出迎えの言葉を吐く前に、お前は笑うなと命じた。気分が悪いとも。その後の一護の顔は見なかった。見たらきっと、もっと気分が悪くなるとわかっていた。
・・・わかっていた。







「隊長」
重い声に振り返れば、一護の世話を任せていた部下が暗い表情で立っていた。巨躯を見上げ、何だテッサイと。
「一護殿が、」
最後まで聞かずに、浦原は駆け出していた。

黒い刀を携えて、もう子供とはいえない一護が、立っていた。死を運ぶ者の衣装が少しばかり変形しているのは、卍解のせいか。もうそこまで成長したのかと感嘆するが、事態はそれどころではなかった。一護の顔の半面を覆う白い仮面。不気味な表情を浮かべる一護は、すでに死神ではなくなっていた。頬が裂けているように釣り上がった口元から覗く舌が虚のように長く尖り。綺麗な鼈甲色の瞳は黒く塗りつぶされた。純度の高い一護の霊圧は、もう感じられない。






目前に立ちふさがる死神たちを薙ぎ払う仕草には、浦原が教えた剣はなく。
「一護はどうした」
小さな声で呟けば、編み笠を被った同胞があそこにいるじゃあないかと、虚を指差した。
彼は落ちた、と。
落ちた死神は、もう戻ってこない。耳を劈くほどに鳴き始める己の刀に呼応して、黒い刀を持った虚が浦原を見つけた。にたりと笑うその顔が、歪んだ。




虚の、細い体に突き刺した紅姫が、赤く血を流し悲鳴をあげる。悲痛な声で叫ぶ姫をその身から引き抜き、一度払って、鞘に収めた。ずるりと剥がれ落ちるように崩れた一護の体を抱きかかえ、ゆっくりと横たえた。口から大量に血を流すその身が、再び純度の高い、白い霊圧に包まれる。
「一護」
名を、声にすれば腕に抱かれた一護が、視線をこちらに向けてくる。綺麗な瞳の色だと、初めて気がついた。澄み切った瞳が静かに浦原を見詰める。
「・・・は・・じめ、て・・だ。」
あんたが、俺の名前呼んだの。苦しそうに告げられたその言葉に。そうだったかと意識を飛ばした瞬間、子供は血の塊を口から吐き出した。もう、この身はもたない。




体を巡る血が、冷たく凍った。強く巨大な感情に、脳が揺れる。小さな子供。やせ細った子供。羽織を掴んだ手。揺れた瞳で見上げてきた。浦原が屋敷に帰れば、一護はいつも出迎えてくれた。帰る場所になった。人に向けた笑顔。なぜ、自分に向けた事のない表情を他人に晒すのか。嫉妬した。けれど、その笑みに心惹かれた。顔を覆う仮面を、ゆっくりと外す。乾いた木の葉のように呆気なく崩れおちた仮面の下から、酷く穏やかな子供の顔が出てきた。柔らかそうな頬に手を伸ばす。やはり、柔らかかった。血にまみれた顔を、拭うように撫でていく。頬を、額を、目尻を、口元を。
「・・・・・こ、れは・・俺が、弱か・・・から・・」
弱さにつけ込まれたのだ。だから。
「あん・・たが、・・気に・・する・・ことは・・」
だから、そんな。後悔しているような顔はしないでくれ。
もう、声にもならないような、呼気で。
必死に伝えてくる言葉に、瞼が熱くなる。
「・・・・一護・・・・」





一護に、笑うなと告げた翌日から、子供の雰囲気は変わった。表情を変えることもなくなり、極力他人とも触れ合うことはなくなった。陽の光は翳った。それは、明らかに自分の愚かさが招いた事。醜い嫉妬心で子供を暗き闇に縛り付けたのは、自分だ。




「・・・・すまな」
「あやま、んなよっ・・・!」
謝罪の言葉を遮り、瀕死の体にも関わらず、一護は浦原の襟を掴んだ。
「お・・願い、だ・・・お願い、だから・・・」
謝らないでくれ。血に塗れた頬に、透明な雫が流れる。目に一杯の涙を溜めて、必死に最後の言葉を吐き出す子供。死ぬな、と。死んではならないと、初めて強い願いを得た。叶わぬ、願いを得た。急速に萎んでいく霊圧を感じ取り、繋ぎとめるように細い体を掻き抱いた。
「死なないでください死なないでください、死なないでください・・・っ!」
死ぬな、と耳に命を吹き込むように囁くが、愛しい子供から生が抜けていく事は止められずに。死ぬな、と一層強く抱きしめれば。
「・・・うら・・」
一度だけ、髪を梳いて。その指先は地に落ちた。












死人のようだと、皆に言われた。
死人になれたら、と笑みで返した。
胸からごっそり抜け落ちた何かが、浦原の意識を死へと近づけさせた。頭を占めるのは、あの子供のことばかり。一護の顔ばかり。もっとはやく気づけばと、何度嘆いたことか。後悔したことか。何も手につかぬ様子に、渇を入れにきた馴染みの女は苦しげな顔で屋敷を去った。慰めにでもきたのか、何人かの同胞が浦原の元を訪れたが、みな一言も発しないまま屋敷を去った。重い空気に堪えられぬのか、はたまた浦原の狂気にも近い想いに堪えられぬのか。なぜ自分がまだこの世にいるのかが浦原には理解できなかった。自ら命を絶つことは、あの子供が一番嫌がりそうだと思うとできなかった。しかし、このままの状態でいたら、何れ自分の身に訪れるのは死だ。それを待ち望んでいるのだと思い始めた時。赤い髪の少年が浦原の元を尋ねてきた。一護が笑顔を向けていた、あの時の少年だった。





次の日から、浦原は普通に出仕した。
隊首会にも出た。隊舎にも顔を出した。局にも顔を出し、前に調べさせていた結果を聞いた。何事もなかったように喋って食べて嫌味な笑みさえ浮かべ。どうしたことかと驚きと不安を混ぜた顔で尋ねてきた白髪の同胞に、別にと冷えた様子で答えるが納得いかない様子。
「それよりも、アタシ明日からここにいないんで」
「・・・?どういうことだ?」
「令状がきましてね。永久追放受けました。」
もうここには戻ってきませんから、後はよろしく。白い羽織を脱いで、備えつけの卓に投げ置いた。待てと後ろからかけられた声には片手を上げてひらりと振った。




一護の体から作った玉が、この世界では存在してはならないものだと判断された。崩れ落ちる体から、核を取り出し己の霊力で加工した。あの子どもの、器の核。崩玉と名づけ、手元に置いて愛でる。これも狂気だなと、白く光る玉を見詰めていると。それを僕にくれないかとほざく男が現れた。十分な見返りを与えると言った男に、じゃあ一護さんをクダサイと切り捨てた。彼以外いらない。




赤い髪の少年は、一護の言葉をもってきた。
「あいつ、一護が・・・、前、一回だけ俺に言ったんです」

『俺さあ、死んで、もっかい生まれてきても・・。多分あの人の、羽織の裾掴むんだろうなあ』

そうやって、笑ってました。それだけっす、と本当にそれだけを告げて、少年は頭を下げて去った。

『俺さあ、死んで、もっかい生まれてきても』

君は気がついていた。自分の中の虚の存在を。そして死を予感していた。

『羽織の裾掴むんだろうなあ』

覚えていたのか。あんなに小さかったのに。

望んでくれていた?再び己と共にあることを。そんな言葉で、笑っていたのか君は。では、自分は待とう。君が再び、裾を掴むのを。いつになるかわからぬ喜びを待ち続け、自分は永劫の時を生きていこう。












子供の魂は連鎖の流れにのっていった。

残った体から取り出した核を玉にした。

魂の繋がりはこれでわかる。

きっと、この玉が一護の魂を見つける。

小さな赤ん坊に玉を埋め込み、目印をつけた。

少女が、浦原を一護へと導く。




今度こそ、共に。










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