今日という日を、特別と思ったことはない。
ただ、過ぎ去る日々の、境目のようなものだと。
うつら、うつらとした眠りから覚めて、一番最初に愛しい人の顔が見れる、というのはこんなにも嬉しい事だとは、思いもしなかった。触れ合う肌の暖かさに、知らず知らず口角が上がる。きっと締まりのない顔をしているのだろう。構うものかと、溺れ行く己に苦笑が漏れる。その、僅かな揺れを感じたのか、眉間に寄る皺に唇で触れた。ほう、と開けられた琥珀色が艶やかに色付く様に、昨夜の事が思い起こされ。引かれるように唇を寄せれば伏せられる瞼が震えていた。
世間がクリスマスだ聖夜だと騒いでいる間、浦原と一護はとても甘い夜、とは言えない時間を過ごした。一護は情報と経験が足りなかったし、浦原は感情と行動の差に戸惑っていた。
キスは、した。告白、というものもした。
順序は逆だが、一応、恋人同士となるには十分な段階を越えたはずだったけれど、一護も浦原も、なんというか・・・ぎこちなかった。初めてした告白、初めて触れた相手の体温に一護は舞い上がっていたが、何も言おうとしない、こちらを見もしない浦原に困惑していたし、浦原は浦原で、今更持った感情を持て余していたし、考えるよりも先に手を出してしまったことに、少なからずショックを受けていた。
自分は、理性の人だと思っていた。何かを欲したことはなかった。執着したこともなかった。はずなのに。触れた唇の柔らかさ、甘さ。閉じた瞼を縁取る睫が震えて、まるで誘っているように浦原を惹きつける。それこそ、理性やら浦原の全てを総動員して、触れたい抱きたい、という手を留めてはみたものの、側に彼がいるだけで心が浮ついて。
ぽつり、ぽつりと、途切れ途切れに続く会話。少しずつ、それこそ歩み寄るように近づいていくけれど、その日はそこで時間切れ。惜しみながらも一護を送り、家の近くでもう一度、キスを。
「ああ、惜しい事したな」
「?」
「・・・・もっと、触っとけばよかった」
甘やかな声で、頬に朱をさしてのその言葉に、別れ際に言う言葉じゃないと嗜めるように腕に閉じ込めた。
戻って、寝て、起きた後にまるで出来たての、それこそ恋人たちのような事をしたと思い至り、頭を抱えた。伸び放題の髪に指を指し込み、頭を直に掴むように手を広げる。
なんてことだ。
それを喜んで受け入れている自分に、溜息が漏れる。頭を占めるのは、彼のことばかり、だなんて、そんな。
結局一護が来るのを耐え切れずに部屋まで迎えに行った。抗議や抵抗なんてする暇も与えない。欲しいと思った体を抱きしめて抱えて自分の部屋まで運びこんだ。障子をぴたりと閉じて、声を聞く前に口を塞いで、こちらに伸びてきた手を捕らえて。くん、と匂いを嗅ぐ。石鹸に混じる一護の体臭に、思考が焼き切れるかと思った。
そのまま強引に事をすすめてしまおうかとも思ったが、鳩尾に喰らった一発で断念した。涙目で浦原を詰るくせに、作務衣の襟を掴んで離さない一護に、堪らず好きだと言葉が漏れた。
好きです。
好きです。
抱かせて。
真っ赤になって、それでも、嫌そうな顔をしなかった君に手を伸ばしたけれど。少し待って、の言葉に生殺し。いつになったらやらせてくれます?
君は黙ってアタシを叩いた。
「暗いな」
「・・・・・ああ、夜一さん」
寒いから、部屋でぬくぬくと暖を取っていると、たしたしと黒い猫が入ってきた。しなやかな体が優雅に座る様を見届けてから、用意していたミルクを差し出す。口をつけるために顔を下げたまま、猫は、明日は誕生日だな、と切り出した。
「実はそうなんですよ」
「・・・・一護にそう言ったら、驚かれたぞ」
一護さんに会ったんですか!と詰め寄れば、五月蝿いと尻尾が畳みを叩く。
「何も用意していないと嘆くのでな、浦原はあまりそういった行事に興味はないぞと言っておいた」
まあ、奴のことじゃ。祝いの言葉を言いに来るじゃろうて、と言い切ったところでテッサイから客の報せ。誰と聞く前に部屋を飛び出した。気持ばかりが急いていく。
店の中で、所在無く立っている一護を見つけ、浦原は慌てて土間へ駆け下りた。
「そこじゃあ寒いでしょうから、中へ」
「あんた、明日誕生日なんだってな」
礼儀正しい一護が挨拶もせずに切り出した話に、先程の夜一の言を思い出す。
『何も用意していないと嘆くのでな、浦原はあまりそういった行事に興味はないぞと言っておいた』
己の誕生日を一護に教えた事を、ありがたく思えばいいのか、余計な事と思えばいいのか。機嫌の悪そうな一護を見ていると余計な事を、とも思うし、けれど一護に会えた事はありがたいと思う。何も用意していない、の言葉を思い出し、その事を謝りに来たのではないかと推測して。
「プレゼントとか、いいですから。気にしないでください」
質問に答えるような形でなく、最初に断りを告げ、失敗したと思う前に一護が顔を伏せた。
「・・・いらねえのかよ」
その声が、拗ねたように浦原には聞こえたので、急いで否定を伝えた。
「いえ、その、頂けるなら欲しいですが・・・」
まさか用意してくれたのだろうか。夜一から告げられてからの僅かな時間で。ニヤニヤ笑うなよ!と一護に言われて、自分が笑っていることに気がつく。笑っている?人に、一護に誕生日を祝ってもらえる事に、笑っている?
今日という日を、特別と思ったことはない。
ただ、過ぎ去る日々の、境目のようなものだと。
それがどうだ。
寒さに顔を赤く染め、肩を震わせている子供が祝ってくれると知ると、浮かれ上がるこの心は。彼がおめでとうと言ってくれる。彼が、自分の生まれた日に共にいる。ちょっと、アタシらしくない事をしてもいいですか?
神様、ありがとう。
やっぱり寒さに耐え切れなくなった一護が、とりあえずアンタの部屋でと切り出すまで浦原はふわふわと浮き上がる心に身を任せていた。思考もまかせていた。つまり、呆けていた。
「・・あ、はい。どうぞ・・・」
お邪魔シマスと靴を揃えて上がる一護の背中を抱きしめて抱きしめて抱きしめたいけど。伸ばした手が届く前に一護はすたすたと先へ行ってしまった。所在無さげな手を握り締め、一護の後を追った。
「今日、っつーかさっき誕生日って聞いたから、その、上げるもん用意できなくて」
部屋に入るなり唐突に切り出された早口の言葉に声を挟む隙はなく、とつとつと語る一護を浦原は黙って見詰めた。綺麗な形の後頭部が少し下がって、項がよく見える。
「おめでとう、って言うだけじゃ、なんか、悪りぃ気がして。あんたの喜びそうなもんとか、色々考えたんだけど」
これしか思い浮かばなくて。
頼むから、断ってくれるとな言われているような必死の形相で、必死の視線で睨むように見詰められて、自然と手に力が入る。力を溜めているような霊圧の高さに一護が一体何をしでかすのか不安に思う部分もあるが、まあ、誕生日を祝ってくれると言っているのだから、そう大層な事をしでかしたりは
「や、ヤッてもいいぞ!」
・・・・しないと思っていた。
「・・・・・え、」
「あ、あんた、その、この間、ゃ・・・ゃりてぇって・・言って、」
肩を張って、これ以上ないってくらい真っ赤になりながら大胆な告白をしてくる一護に、くらりと眩暈が起こる。くらりくらりと、際限なく引き寄せられていく。こんなに質の悪い酔いは初めてだ。そして、こんなに幸せな気分で他人に落ちていくのも。頬に手を伸ばして、びくりと震える体。触れ合える。こうして、手を伸ばせば君が。
「・・・アンタの誕生日だって、聞いて・・。この間、嫌がったばっかなのに、変かなって思ったけど、・・・アンタが。
・・浦原、が、俺のことそういう風に、・・・欲しいって思ってくれてるってわかって。・・・・なんか、あんたに喜んでもらえたら、いいかなって」
言葉が出てこない。何一つ。
だから、思いを込めて口付けを。
キスをキスをキスを。
額に頬に鼻に唇に。心まで届けばいい。
今日という日を、特別と思ったことはない。
ただ、過ぎ去る日々の、境目のようなものだと。
色素の薄い瞳が現れ、浦原はにやける顔をなんとか押さえ、おはようと微笑んだ。しっかりと覚醒したら、きっと彼は直ぐにこの腕から出て行ってしまう。じゃあ、また、と言葉を残して浦原の目の前からいなくなってしまう。
ああ、だからせめて。
今のこの時、誕生日という日にかこつけて、もうしばらく君を抱きしめさせて。
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