自分は、あまりスキンシップというような、他人との触れあいを得意とはしていない。
苦手、なのだ。
昔はそれほどでもなかった。小さい頃は、よくおふくろに飛びついたりもしたし、親父の激しすぎるスキンシップにも、素振りはいやいやとしながらも、笑いながら受けていた。妹たちは、まだうまく歩けずに、バランスを崩して倒れてしまうなんてしょっちゅうで。そんな妹をかかえあげて、家まで連れ帰ることなんて何度もあった。全身で抱きついてくる妹に、重いとひーひー言いながらも、絶対落としてなるものかと、ぎゅうと、力を入れて抱き上げて。そんな俺たちを見つけたおふくろや、オヤジが、さすがお兄ちゃん!と言いながら妹を抱き上げて一護の頭を撫でてくれた。
おふくろが死んでから、オヤジの激しいスキンシップを、わざと避けるようにしてきた。甘えてはならない、という一護の覚悟だった。本当は抱きついて泣き喚きたかったけど、俺にはそんな資格はない。親父は理由を問いただす事はせず、ただそんな俺の気持を汲んでくれたのか、以前のようには触れてこなくなった。
だけど。
本当はそれが理由じゃなかった。
あれは、中1の梅雨だった。珍しく、オヤジがベロベロに酔っていて。いつもオヤジが絡む妹たちが、その日はもう眠っていて。そして、母さんが死んだ日のように、雨が降っていた。この時期はいつも寝付けなかった。じわり、じわりとした湿気が体に沁み込んで、一護を蝕んでいく、この時期は『嫌い』とか、『苦手』という限度を越えていた。だから、その日も中々寝付けなかった一護は、水でも飲もうと、一階に下りていった。キッチンに行くには、リビングを突っ切らなくてはいけなくて。
そこに、オヤジは一人酒を飲んでいた。
ぐでぐでになって、一護の姿を見つけると、よう!と陽気に声をかけてきた。常からハイテンションな父だが、その日はなんというか、苦しそうに見えた。一護は、呑みすぎだと、注意しながら水を差し出した。最近背が伸び始めた一護だが、まだこの父の身長には程遠い。呆れながら、水を飲む自分の父を見詰めていると、なあ、と常にない静かな様子で話はじめた。
「お前、何を抱えてるんだ」
お前の父親やってんだ。
そんくらいわかる。
そう、切り出した父親に、一護は何も話せなかった。
昔から幽霊が当たり前のように見えていた。
だけど、ここ最近は酷かった。中学に入ってから、一護は自分の霊感が強まっている事がわかった。見れる、触れる、喋れるの三重苦に加え、『想い』が一護に圧し掛かってきた。
想い、思い、重い。
息苦しさは常に纏わりつき、酷いときは頭が割れるような頭痛に襲われた。そのせいで、中学に上がったばかりの頃、一護は休みがちな子供であった。それも一年ほどで安定したけれど、その時、一護は最悪の時期だったと言えた。
常に具合の悪そうな一護を見て、一心はただ静かに、寝ていろと息子の頭に大きな手を置いた。それが、一心には辛いことだったのかもしれない。全く霊感のない父には、わかることの出来ない息子の苦しみ。さらに、妻の命日が近かった事も酒を呑みすぎた理由になるのかもしれない。死を見る機会が多い医者という仕事についていても、死は恐ろしく、不気味に一心を襲った。
妻を事故で亡くした、あの時。
あの時から一護は危うい存在に見えた。
小さく、甘ったれだった息子は、強い意志を瞳に携えるようになった。だけど、一心にはそんな息子が危うく見えていた。霊感の強い、愛した女が守った子供。妻に似て、霊感を持ち、妻よりも強い霊感を持つ、自分の息子。自分が見えない世界を見、人間とは違った世界のものたちと近しい一護が、今にでもそちら側に行ってしまうのではないかと、気が気ではなかった。特に最近の一護は、青い顔で、がりがりに痩せていた。眠れないのか、目の下に大きなクマを作る事もあった。何もしてやれない、することのできない己に、悔しさが込み上げてくる。限界以上に酒を飲んだ頭に、葬式の時に見た妻の顔が浮かんだ。そんな時、一護が水を差し出し、そろそろ寝ろと言ってきたものだから。心に溜めた言葉を、息子に吐いた。一護は、何も言わない。ただ、静かに目を伏せた。
思わず、昔の時のように抱きしめてしまった。
あの頃より、大きくなった子供の成長に、素直に喜んだ。
「でかくなったなあ、お前」
ちょっと前までは、簡単に抱き上げられるくらいだったのに。
何も言えない自分を、親父は力強く抱きしめてきた。懐かしいとか、照れとか、その時は思い浮かばなかった。ただ、一護を襲ったのは恐怖だった。
温かい、父の体温。
生きている人の温かさ。
母が自分を抱きしめた、温かさ。
そして、母が自分を守って失った、体温。
蒸し暑いはずの季節だったのに、自分と母に降り注ぐ雨は突き刺すように冷たく。温かさが、温もりが失われていく母を、冷たい雨から守ることも出来ずに、逆に守られるように抱きしめられたまま。身を、心を突き刺す寒気が一護を襲った。
父が
母が
雨が
女の子が
笑う母が
動 か ぬ 母 が
気がついた時には、親父を力いっぱい突き飛ばしていた。手加減など、考える余裕もない。尻餅をついた父親が呆然とこちらを見ているのにも気がつかず、一護はトイレに駆け込んだ。胃の中のものを出し切るように吐く。胃液で喉が焼けるように熱かったが、そんなことを気にしてはいられなかった。もう吐くものがない一護は、ごほごほと、空咳をして息を吐いた。上手く呼吸が出来ない。苦しいと頭が理解する前に、背中を父親の手が撫でているのに気がつき、泣きそうになった。父の手の体温に寒気を感じる己が、苦しかった。
次の日、何事もなかったようにふる舞う親父に、大声でごめんなさいと謝りたかった。
母さんを死なせてしまって、妹たちを悲しませてしまって、父を苦しませてしまって。
一護はその一年、過度のスキンシップを避けていた。嫌いというよりも、堪えられなかった。喧嘩で相手に触れる事は大丈夫だったが、クラスメイトに腕を掴まれるだけで一護は吐きそうになった。不安定だった霊感が安定し、以前に比べれば心に余裕が出てきたお陰か、触れられて吐き気を催すということはなくなった。だけど、やはり触られるのは苦手だった。
母の仇と出会い、自らの力を知った一護に、その男は姿を見せた。浦原喜助。見るからに怪しいその男は、事実、その中身も怪しかった。だけど、大きな衝撃を一護に与えた。自分に転換期を与えたその男に一護は興味を持った。何者だと、問い詰めたい気持もあった、実際に何度か口にしたけど、男ははぐらかすばかりで。そんな男と、何故か恋仲になった一護は、どうしてだと頭を捻るばかりだ。どう転んで、男に対して好意を持ったのだろうか。それも、恋という感情が含んだ好意を。浦原に恋愛感情をもたれていると気がついた時、一護は嬉しかったけれど、同時に申し訳なくも思った。きっと、自分は男と恋人同士のような触れあいはできないから。
浦原が、抱きしめてもいいかと、聞いてきた時、一護は困ってしまった。ここで断るのは、流石にいけないだろうとわかっていたが、もし、触れた時にあの恐怖に襲われて、突き放してしまったらと考えると、素直に首を縦にふることはできなかった。答えに窮している一護に、浦原は溜息とともに一護の名を呼んだ。
「ねえ、黒崎さん。アナタが何を危惧しているのか、アタシにはわからないけれど、とりあえず抱きしめさせてはくれませんか?」
それが何か一護さんの不安を生み出すのだったら、取り合えず実践してみてから悩みませんかと、浦原は言って、一護の答えを聞く前に行動に移した。ふわりと、風のように近づいた男に抵抗する間もなく、一護はその腕に抱きしめられていた。いつも、男が吸う煙管の匂いが強く香った。細身に見えたけど、実際は結構胸板あるんだなあと、ぼんやりと思った思考に気がつき、一護が愕然とした。寒気も、恐怖も、一護は感じなかった。自分を包み込む体温が心地よかった。頬を擽る髪と、ちくちくと当たる髭が、愛しかった。なんでだよ、と口の中で呟いたつもりの言葉を、浦原は聞き逃さなかった。
「アナタが、人との接触を怖がっているのを知っていました。それで苦しんでいることも。だけど、ねえ、黒崎さん。」
アタシが、それを易々と見逃すとでも思っていましたか。一護の背中を、撫でながら、浦原は囁いた。あの時の親父の手を思い出して、一護は泣きたくなった。人の温もりに、優しさに堪えられなかった己の弱さに。それでも、離れようとはしなかった家族と、友人に。
「その苦しみも、悲しみも、なんでも、アタシは知りたいし、欲しい。黒崎さんの、全部が。」
欲深い男に捕まったのが、運の尽きですね、と男は一護を一層強く抱きしめながら言った。目頭が熱くなる。こんなにあっさりと、己の苦痛を和らげてしまう男が憎らしくもあったが、それ以上に愛しく思った。
その時に、浦原の暖かさをじっくりと味わっていた一護に、男はあっという間に唇を奪い、さらにはその日のうちに最後までされてしまった一護は、今度は以前とは違った意味で、他人の、というか浦原限定で、体に触られる事を極端に嫌がった。けれど、これは苦しさも、悲しさもない。
ただ、ちょっと恥ずかしさだけが一護の体に残るのだ。
戻る