雨曇り
昨夜から降り続ける雨は、勢いはないが、しとしとと一護に染み込んできた。
この季節は、嫌いだ。
延々と、終わりがないかのように降り続ける雨に、曇天の暗さが妙に不安感を生み出して。まるで、自分の罪を忘れるなと、世界中から言われているように思えてしまう。











雨曇り














学校に入れば、湿気で濡れた廊下は滑りやすく、更に一護の気分を不快にさせた。じめじめとした季節は、壁の染みから、天井の角から、ずるりと、ぬかるんだ霊たちが増量する。水の底から這い出てきた霊たちは、霊力の高い一護でさえも、会話など成り立つ事などなく。ただ佇み、湿った目でこちらを見詰めるだけだ。人の多い場所、それも、まだ不安定な心を抱えた学生が集まる学校など、彼らにとっては絶好の場所であった。またこの季節がきて、嬉しいねえ、過ごし易くなったねえと、壁に向かって話し掛ける老人の霊の言葉を聞いて、早く夏になればいいのにと、一護は思う。




ビニール傘が風に飛ばされて折れてしまったと嘆く啓吾に、水色がじゃあ一緒に車で送ってもらうと笑顔で誘いをかける。ふざけるなとか、一緒にいけるかよと、文句を垂れる啓吾に、じゃあ俺の使えよと、濃紺の傘を差し出す。

「え、でも一護どうやって帰るんだよ?濡れて帰るのか?濡れるのか?水も滴るいい男になるつもりかこの野郎め!」

「違えよ。チャドにでも入れてもらうから、俺の使えよ。」

相変わらず、啓吾の思考がたどり着く場所が見えない。悪いなー!助かる!と傘を受け取り手を合わせてくる啓吾に、いいから早く行けと手を振る。チャドは教師に呼ばれ、重い資料運びを手伝わされているらしく、その場にはいなかった。二人がいなくなると、一護はチャドを待つことなく、鞄を頭に翳して走って校門を抜けた。

最初からチャドに入れてもらおう何て気はなかった。

ただ、どうしようもなく走りたかった。傘なんか差さずに。

雨よけにしていた鞄が雨を吸い込み、頭に翳している鞄から垂れてくる雫は、雨よけの意味などない程。鞄を下ろした。降ってくる雨は容赦なく頭を叩きつけ肩を冷やし、心まで沁み込んで重くする。走ることを止めた足は、どこまでも鈍重な動きをし。ずるりずるりと、歩き続けると格好の餌食とでも思われたのか、不穏な霊が寄って来る。構ってはいけない。彼らが見えていると感づかれてはいけない。でないとどこまでも彼らはついてくる。びしょ濡れになりながら行く当てもなく街中を歩き続ける。傘をさした子供が一護を見遣り、びしょ濡れだあと一声あげた。








人通りの少ない道を選んだわけでもないのに、気がつくと一護の回りには後ろからついてくる霊以外誰もいなかった。まずい状況だと、どこか他人事のように思うけれど、どうにかしようと行動にうつす気力が今の一護にはない。後ろから聞こえる足音が、ずるりずるりと大きなものに変わっていっても、一護は歩みを決して速くせず、むしろ遅くしていった。このまま。このまま囚われることになったら、どうなるのかなんて。人の世界と、霊の世界の境界線は曖昧なのだと、帽子を深めに被った男が笑いながら言ったことを思い出した。

『君みたいに、霊力の強い子はあっという間にアチラ側につれていかれるよ』

だから、気をつけて。

敷居の向こう側や、扉の向こう側や、門の向こう側や。境界線はあちらこちらに存在するから、気をつけなさい。そういって笑う男の顔は、アチラ側にいってしまった者からの、羨望と嫉妬が混じっていた。













ずるりと、耳元で聞こえる足音に思考の海へと沈んでいた一護は思わず体を振るわせた。
(しま・・・!)
った、と思った時には既に遅く。後ろから伸びてきた闇の触手に、体をからめ取られそうになる。ここまで接近を許してしまっていたのか、と唖然とする。雨に気を取られ、意識を沈めさせてしまった己自身に舌打ちする。目の前に闇が迫っていると視覚が理解した瞬間、物凄い力に体が持っていかれた。視覚で捕らえられない速さで流れる景色の中に、黒い羽織と、縞柄の帽子を見つけた。ゲタボーシと、呟こうとしたが、声に出すことはできなかった。

「何をしている」

聞いたことのない声音、見たことのない眼差し、知らない表情。
常の、へらりとした笑みを浮かべ、つかみ所のない柳のような男とは思えなかった。突き刺すような霊力に当てられ、この男の霊力に慣れている筈の一護が、恐ろしさに震え上がった。

「何を、している」

もう一度同じ問いをしてくる男に、一護は呼吸すらままならぬ状態で、何とか答えようとするがガタガタと震える口ではそれは叶わなかった。男は暫く一護を無表情に見詰めていたが、唸るような闇の声で視線を外す。あの冷たい目が自分から外れた途端、止まっていた呼吸器官が正常に作動する。はっはっ、と苦しそうに息を吸い込む一護を腕に抱きながら、浦原は雨の中で佇む闇を見据えた。




それは声と呼べるのか、空気中の水分と飛ばす程の震えを闇は発す。虚とは呼べぬ、どちらかといえば物の怪の類に近いか。雨の日の湿気を好む闇が、太陽を取り込もうとするか。輝くばかりの霊力を有す、この少年のその身に取り込み、どうしようというのか。反発するだけと知っていながら、それでも引き寄せられてしまったのかと、愚かな存在を笑う。

アタシと同じだ。

闇の中をもがいてしか存在出来ない自分たちが、沈殿した闇の中、遥か上方にある光に憧れ、必死に手を伸ばす。
伸ばせば伸ばす程、光は遠ざかり、少しでも光に触れた我が身が崩れ去るとわかってはいても。自嘲の笑みにも似たその笑いは、底の見えぬ暗さを持ち、浦原に抱きしめられた一護は、自然と見上げる形でその表情を見た。何もかもが自分に降りかかり、落ちてくるようなその重さに耐え切れず、一護は膝から落ちた。そのまま崩れ落ちる事は、浦原の腕に抱えられている為、出来なかった。落ちることは許さぬと、自分から逃れる事は許さぬとばかりに、体を支えている手が腕に食い込む。

「ねえ、黒崎さん。」

先程と同じ声音で、浦原が静かに聞いてくる。

「アナタ、向こうに行こうとしたでしょう」

闇に引きずられるまま、アチラ側に行こうとしたでしょう。

「アタシの元から、いなくなろうとしたでしょう」

例え、アナタにその気がなくても、あと少しでアタシから離れるとこだったの、わかってる?




何か、何か言わなければ。焦りばかりが一護を襲い、逆に何も言えぬ状態へと、追い込んでいく。冷たい瞳で冷気を浴びせてくる男が熱く煮えたぎるような感情で自分を見詰めていることは、一護にはわかっていた。だけど、感情に口が追いついてくれない。そんな様子を、浦原はじっと、暗い目で見詰めた。怯えた瞳で、必死にすがり付いてくる子供の心を感じ取り、暗い笑みを心の中に浮かべた。一護が自分を逃さぬように、離れぬように必死に掴んでいる服の皺に、己の欲を見た。その間、ゆっくりと、雨雲のように広がり二人を包み込もうとしている闇に対し、浦原は面倒くさそうな視線を一瞬だけ向け、片手を軽く一線した。なにかの圧が、闇雲に襲いかかる様子を視界の隅に捉えていた一護は、闇の結末を知らぬまま、浦原に抱きかかえられその場から連れ去られた。闇は圧に消され、僅かに残った黒い滓が、恨めしそうに二人の後ろ姿を見送った。












目を隠されるように手で覆われ、そのまま物凄いスピードで持ち運ばれていることはわかった。とん、と軽い衝撃のあと、やっと地面に下ろしてもらえたのだとわかり、一護は何か浦原に言おうと、口を開いた。一護にも、己が何を言おうとしていたのか、わからない。そして、結局、一護は己の口が言おうとしていた言葉を聞くことなく、浦原によってその場に押し倒された。背中に感じる草と、土。ようやっとはずされた目には、曇天と、それよりも暗い色をした男の顔が映った。ここがどこなのか理解する間もなく、一護は手酷く男に抱かれた。









空から降り注ぐ雫が、目に口に鼻に耳に流れ込む。呼吸をする度に器官に入り込む雨に、一護は何度も咳き込んだ。苦しいと、非難の声をあげたいのに、浦原の顔を見てしまう度に、ぐっと、一護は言葉につまる。

なんて、あんたがそんなに苦しそうな顔をする。

揺さぶられる度に襲ってくる激痛に、咳き込む事で男を締め付け、さらに強く腰を打ちつけられた。短い呼吸音にあわせるように、激しい抽出に一護はただ喉がかれるまで叫びつづける事しか出来ない。男の心理状態が最悪なのはわかっていた。そして、それは一護には、男自身にもどうにもできない嵐だということもわかっていた。だけど、何もしないというのは、一護の性分とは反していた。だから、だから。そんな顔をしないでくれと、するなと伝えるように、男の頭を抱き寄せた。二人とも雨で濡れ、土でぐちゃぐちゃの酷い姿だったが、気にしている余裕は、一護にも、男にもなかった。

強い衝撃を感じ、ああ、と声を上げた一護の唇に、男が噛み付いて。遠のく意識の中、浦原が呟いた言葉を、一護は確かに聞いたはずなのに、その言葉は雫のように記憶から零れ落ちた。









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