Which Dreamed It?


幼い頃、正確な歳は覚えていないが、不思議の国のアリスのアニメを見たことがあった。
妹たちも近くで一緒に見ていたと思うのだが、幼かった一護よりもさらに小さかった妹たちは大人しくテレビを見ていることができなかったのだろう。アニメに興味は示しながらも玩具で遊んでいたのを覚えている。そして途中で飽きて眠ってしまった妹たちと親が寝室へと連れていき、リビングには一護一人になった。
正直、詳しい話は覚えていない。何かから逃げるアリスに自分を重ね、正体のわからない怖さに思わず抱きかかえていたクッションを強く握った。母が好きな花の模様が入ったクッション。今でもまだリビングのソファに置かれているクッションの柔らかな感触が酷く心許なかった。
妹を寝かしつけて戻ってきた母の腰にきつく抱きついたのも覚えている。泣くほどではなかったが、一人で耐えきれる強さをまだ持っていなかった。
どうしたの、と優しく聞いてくる母の声は覚えているが、それに何と応えたのかは――記憶にない。
それから一度もアリスは見たことがないから、きっと怖かったとか、もう見たくないとか、そんな事を言ったんだと思う。テレビを見ているよりも、外で遊ぶことが多かった幼少時。それ以来アリスを見る機会はなく、記憶の片隅に僅かにあの時感じた恐怖が残っている程度だ。
それから暫くして母親が事故でこの世を去った。喪失の日々を悲しもうにも、医者をしている父親は忙しく、まだ幼い妹二人を任せられた一護も慌しく通り過ぎる日々を見送ることしかできなかった。母のいない家は光を失ったように薄暗く、それに耐えられなかった一護と妹たちは学校から帰るたび家中の電気をつけて回るのが習慣になった。少しでも母がいた頃を同じ姿を見て痛かったのだ。
父はそんな子供たちの行動を諌めはしなかった。一護たちが落ち着くまで電気はつけっぱなしにしていてくれたし、リビングで丸まって寝ていても傍に布団を敷いて一緒に寝てもくれた。
しかしどこか薄暗く思える家も生活をし続けていれば慣れて来る。家中の電気をつけなくても落ち着けるようになったのはいつだったろうか。はっきりとした境界線があったわけではないが、身体に染み付いていく『新しい日々』は気づかないうちに一護たちの意識を塗り替えていく。
母がいた頃とは違うリビングの家具の配置。眠れないのだと潜り込んだ母の寝台に布団が敷かれることはなく、けれど母が好きだった花はいつだってリビングの一角を飾っていた。
一人、家族の減ってしまった家。ただいまと温かく迎えてくれた母の笑顔が遠い記憶へと変わり、心を突き刺すような寂しさを感じなくなった。けれど日々の中、家のあちこちに残る母の面影は今でも家族の中に色濃くある。帰ったら手を洗うこと、うがいをすること、食事中にテレビは消すこと、食後十分以内に歯を磨くこと――
喪失に慣れることはあっても、決して忘れることのない思い出を抱きながら日々は過ぎてゆく。そうして妹たちが大きくなり、家事を一通り任せられる頃になると、一護は高校生になっていた。
家族の料理を準備するために早く家に帰らなくてもよくなり、(妹の一人が料理をうけおうことになり、手伝いを申し出ても「一人でできるから!」と頼もしいが寂しい断りの言葉を言われてしまった)むしろ外で友達と遊んでおいでと言われるようになってしまった。だからといって、小学生の妹たちが真っ直ぐに家に帰ってきているというのに、自分だけが遊んでいることなどできるわけがない。
結局家から直で帰ってくる兄に妹たちは「友達無くすよ」「寂しい高校生活だね」と言いながらもどこか嬉しそうに構いかけてくるのだから、一護の帰宅が一般的な高校生に比べて早くなるのは仕方がないことだろう。そうしてできた妹たちとの約束は、「週に数回は友達と遊んでくること」というものだった。
といってもすぐに家に帰る癖がついているせいで暫くは三人共に台所に並ぶ日々も続いていたこともある。家事をする曜日は決まってはいなかったが、授業が多い曜日は妹たちが家事を担当し、クラブ活動がある時は一護が家事を担当する。どうしたって小学生の妹たちの方が帰宅する時間は早いので負担は妹たちの方が多くなってしまうのだが、そこらへんは父親の仕事の手伝いもあって、仕方のないことだった。
一護も妹も、外で遊ぶことは嫌いではないが、どちらかと言えば家で自分の時間を持つ遊びに重点を置いていた。一護は読書が好きだし、妹の一人、遊子は手芸にはまっていて、夏梨は映画を観るのが趣味だ。
特に最近の夏梨の好みは有名なテーマパークを経営する会社が作るアニメーション映画で、一護が家に帰ると大抵妹二人はソファに並んで映画を観ている日々が続いていた。その前にはまっていたアクションものに比べれば、女の子らしい可愛らしいチョイスを珍しく思ったものだ。
その日も、一護が帰ると妹二人はソファに座って映画を観ていた。いつもならば玄関をくぐる時に聞こえてくる「おかえり」の声が、その日はかからなかった。不思議に思いリビングを覗き込むと、一護に気づく様子のない二人の姿とテレビを流れる懐かしい映像。
「ただいま」
リビングに入り、映画に夢中になっている妹二人に声を掛ける。そこでやっと気がついたのか、お帰りと上の空の返事が返ってきた。
夢中だな、と呆れながらもソファの後ろから覗きこむようにテレビ画面に目をやる。何のアニメかわからないが、奇妙な芋虫みたいなキャラクターが煙管のようなものを吸っていた。あまり綺麗な画像ではないから、古いものかもしれない。




(続きは『Which Dreamed It?』に収録)





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