IRIS


現を夢見て 夢を乞い願い 幻を彷徨う

一人、霧の中を進みながら過ぎて行く時間に

恐れを抱きながらも望みを抱きながらも

零れ落ちる涙はとうに無く


ただ、独り夢の空を飛んでいく


空飛ぶ円盤が目撃されたという噂
There's a rumor of a flying saucer having benn seen







ネットの噂では、電脳空間ばかりを見ているといつのまにか自分の体を見失っているという事があるらしい。


霧が立ち込める路地の一角、早朝の為か、人通りの全くないその路で、一人の少年が積み上げられたブロック塀に右手を当てている。山に囲まれた大きくはない町を山の裾から昇る陽の光がうっすらと家々の屋根を照らし始めた時刻、学生服を着込んだ少年は手を当てた灰色のブロック塀にできた僅かな空間の歪みの表示に表情を曇らせた。
「ここでも無い、か…」
立ち上げたウィンドウに表示されている数字は、ヴァージョン5、45。現在のこの市の電脳空間のヴァージョンは7、0。古い空間の一つではあったが、少年が求めていたものではない。
「もっと古い空間はやっぱ、駅向こうか…」
無駄足を踏んだと溜息をつく少年がブロック塀に掲げていた手を下げると同時に、表示されたウィンドウも消えた。少年は暫く、ザザッとブロック塀に浮かぶノイズを眉間に皺を寄せて見詰めていたが、そのノイズが消えると同時に深い溜息を吐き出した。
「もう少し感度、あげねえと駄目か」
手首に嵌めたリストバンドを引っ張りながら呟く少年は、もう一度霧に包まれた住宅街を見回す。掛けているメガネに表示されるのは、何の変哲も無い一般的な家々だけだ。先ほどまで触っていたブロック塀も、一般的な家と路を仕切る良く見かける敷居にすぎない。「メガネ」を掛けていない人間にとっては、全く異変の見えないごく普通の住宅街でしかないこの場所も、しかし少年にとっては重要な意味を持っていた。つい先ほどまでは。
「今度こそ、って思ったんだけどなあ」
がりがりと、頭を掻く少年の髪は、染めているのか斑の無い見事なオレンジ色だ。その髪が陽の光に当たってきらきらと輝くが、その輝きとは反対に少年の表情は霧の向こうを睨みつけ、曇るばかり。駅を挟んだ向こう側にそびえ立つ巨大なビルを睨みながら、少年は何度目かになる溜息を吐き出した。
この市は、それ程大きくは無い。山々に囲まれた、辺境の地にありながらも、今や世界中に広まっている電脳技術を生み出した会社の本社がある場所だ。云ってしまえば田舎であるこの町でも、電脳情報に接続すれば大抵のものを見る事も知る事もできる現代においては都会と変わらずに情報も物も手に入ってしまう。そして、本社がある為か、度々電脳技術の実験が行われる場所でもある。つい先日にも、とある電脳ソフトが実験の為に投下されたばかりだ。
ぴぴ、と「メガネ」から鳴る電脳音に、少年がはっと顔を上げる。そろそろ人々が活動し始める時刻。そして、それと同時に動き出す電脳ソフトがある。
「何もこんな朝早くから働くなよ、な」
ぶん、と空を飛ぶ丸い球体を視界の隅に入れて、少年は霧に覆われた道を駆け出した。



(続きは『IRIS』に収録)





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