ばしり、と叩かれたような衝撃を感じて一護は目を覚ました。
唐突に覚醒した身体に、意識が追いつかず、一護はくらりとする思考を押さえながら呆となる。
しかし、寝惚けた様子でいられたのは一瞬だけで、すぐさま違和感が一護を襲った。
汗が首を伝い、脳に心臓があるみたいにずくりずくりと揺れる。何だ、とぼやけた視界の中から、見知った男の顔。
「…?ぁ、…うらは…?」
それは、友人とは呼べなくとも、知人とは呼べる位置にいる、男の顔。
なんで男がここにいるのか。確か自分の部屋で寝ていた筈なのに。眠りに入る直前までの記憶が曖昧で、さらに寝起きの頭では何も考える事ができず。
一護に覆い被さっている男をどかそうと手を伸ばせば、厚い胸に直接手が触れた。ぎょっとする。汗をじとりとかいた胸は熱を持ち、慌てて見上げた男の目には欲が浮かんでいた。
「え、なに…っぁ…!」
起き上がろと力を込めたら、びくり、と体が跳ねた。力の入らない体を駆け巡ったのは、覚えのある快感。慌てる一護を驚いた顔で見下ろしていた浦原は、ぎし、と体を倒した。
「ぁっ、」
身に埋まった男の欲が一護の内を刺激する。
「一護サン?覚えてないの…?」
困惑気味の男の顔。暴れる鼓動に翻弄されながら、一護は記憶を手繰り寄せた。確か、友人に誘われた飲み会で…。
「あ!ンぁ…はっ、」
ぐっ、と奥を突かれ一護はのけぞった。
そんな。なぜ。
疑問ばかりが頭を占め、体を焼くような快楽が身を襲う。この男とは、浦原とは友人を介して知り合い、時たま飲み会で会うだけの、それだけの仲だった筈なのに。揺すられながらも、必死に男を引き剥がそうとするがびくともせず。逆に抱き寄せるように手が背に回る。
「ずっと、キミとこうしたかった」
「はっ…あっあっンっ、ぅ…、」
「でも、キミは茶渡君と高校の時から付き合っていて」
「やぁ…う、ら…は…ぁぁ、」
「だけど、ずっと、初めて会った時から」
キミが好きです。
舌と共に耳を侵した言葉が信じられなくて、一護は目を見開く。そんな、と、呟くはずだった声は喘ぎに変わり。最奥まで突かれて一護はたまらずに浦原に抱きついた。ひくん、と収縮する内璧に熱い、浦原の迸りを受け、互いに熱い吐息を零した。
ガヤガヤと騒がしい教室の窓際に座り、ノートを取り出す。それ程人数の多くない講義、挨拶を交わす程度の知り合いは多数いた。チャドがこの講義を取っていなくて良かった。声を掛けられ、反射的に返事をしながら一護は安堵の息を吐いた。今日は、チャドには会いたくない。会って、普通の顔をしていられる自信が無かった。
そっと、昨夜男のつけた痕が残る鎖骨を手で押さえた。
気を遣ったあと、浦原が一護から身を引く感触に、惜しむような声を上げた。浅ましい体が悔しくて、顔を隠して男に出ていけと唸る。
どうしてこんな事になったのか。記憶のない自分を盛大に心の内で罵る。中々傍から離れようとしない浦原の気配が嫌で、もう一度、出て行けと震える声で呟いた。ぎしりと、ベットの鳴る音に身体が強張る。ようやっと、離れた他人の体温に、身体から力が抜ける。
チャドへの罪悪感が沸き起こり、一護はベッドから降りた浦原に背を向けた。浦原が服を着替えている間、必死に荒い呼吸と、鼓動を落ち着かせようとした。はやく。はやく浦原に抱かれた痕を消したい一心で。
「一護、サン」
名を呼ばれ、無様な程、体が震えた。
「アタシは、キミが好きです。諦める気はありませんから…。今日の事も、アタシは」
男の告白に耐えきれずに、一護は両耳を塞ぎ出ていけと懇願した。震える声で、出ていってくれと。ドアの閉まる音が聞こえて、一護は涙を流した。浦原の言葉に、涙が流れた。
どうしてこんな事になったのか。
再度思っても、アルコールの入った頭では考える事も、考える気力も湧いてこない。ただ、自分が茶渡を裏切った事と、浦原を傷つけていた事だけは痛いほどわかった。
講義終了のチャイムが鳴り、席を立とうとして体が揺れた。ひとつ、空けた隣の席に浦原がいた。目を見開く一護を見て、浦原は困ったように笑みを浮かべコンニチハと声をかけてきた。手に持った鞄が、音をたてて落ちる。
昨日の今日で。まさか会うなんて。
「…お昼、一緒に食べませんか?」
固まった一護に、浦原は手を伸ばしてきた。細くて、骨ばった男の手。その手が一護の身体を這った感触を覚えている。その指が、一護の身体を開いた事を、覚えている。流れた涙を、掬った事も。
この手を取ってはいけない。これは、チャドに対する裏切りだと、わかっているのに。伸ばされた自分の手が視界に入り、駄目だと頭のどこかで警鐘が鳴るのに。掬い取られた指が絡まり、愛しげに撫でられたらもう駄目だった。
浦原の、手の冷たさに一護は崩れ落ちそうだった。
違う学部に通うチャドと知り合ったのは、中学二年の時だ。殴られて、視界がぶれた所に現れたチャドに、一護は殴り返す事を一瞬忘れた。初日に喧嘩の助っ人に入ったチャドを、教師達が随分と警戒しているのを見て、一護はすまないと謝った。自分を助けたばかりに、面倒な事になったと。けれど、チャドはその歳には似つかわしくない深い笑みを浮かべて構わないと言った。そんな事は、構わないのだと言ってくれた。もう、その時からチャドに惹かれていたのかもしれない。今まで周囲にいないタイプで、物珍しさからついつい後を追うように茶渡と共にいたが、気がつけばチャドと一護はセットで見られるようになるまで、傍にいた。彫りの深い横顔を、何度も盗み見ては温かな想いに浸っていた。
付き合い始めたのは高校に入ってから。一護の方からアプローチした。チャドの傍は心地良くて、気がついたら好きになっていて。高校に入って、チャドが誰かに興味を持つ前に自分に縫い止められないかと思って。好きだ、と告げた時、チャドが嬉しそうに笑った顔が今でも忘れられない。
初めて繋がった時に零れた涙を拭った優しい指を、忘れた事はない。その気持ちは、今もかわらない。のに。
「何、考えてるんですか?」
咎めるように浦原は一護の肩に噛みついた。痛みに顔を歪めるが、すぐさま快楽に攫われた。
二人、ベッドで横になり、後ろから抱えられるような体勢で抱かれ。こんな事は、いけない。許されない事だとわかっているのに。
あの時、浦原の手を取ったあの時から。一護はその手に絡め取られた。いや、違う。
「や…ぁ…、ぁ」
首に顔を埋め、食い千切らんばかりに歯を立てる男の柔らかな髪を握りしめた。強い快楽は一護に苦痛をも与え。そして一護はその苦痛を手放せなくなっていた。男の、差し出された手に縋っているのは、自分の方だ。
カーテンで遮られた陽の光が淡く場を包み込む。抱え上げられた足が、ふるりと震えた。薄くなる意識の中、一護、と名を呼ばれた。低く、震えた声音がまるで泣いているように聞こえて。一護はたまらず、浦原の頭を引き寄せ唇を貪った。
バイトが忙しくて、と残念そうに告げたチャドに笑っているような、明るい声で答えた。
「じゃあしょーがねえよ、…、バイト、無理すんな」
自分は上手く、笑えただろうか。引き攣った声を出していなかっただろうか。…情事で、掠れた声を出していなかっただろうか。
じゃあ、と名残惜しそうに切られた後も、一護は携帯から耳を離さなかった。少しでも、あの深く響く声を聞いていたいと思って、切れた後もずっと耳に当てていた。今でも、チャドが好きだ。だけど。
溢れる涙を掬う手は、チャドの大きな手じゃなくて、骨ばった、神経質そうな指。浦原に抱えられながら、一護は心の内で盛大に鳴き声を上げた。
これは、裏切りだ。
一護はゆっくりと、目を伏せた。
(続きは『涙を掬うのは』に収録)
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