深く大陸の大半を占める森がいつからあるのか、いつから人々の畏怖の対象になったのか。森に迷い込んだ男は知らない。
人が住む周辺の森は恐ろしいとは程遠く、むしろ穏やかで親しみさえ持てる。しかし、少し奥へと足を踏み込めばそこには重苦しいまでに迫り来る濃緑。樹が重なりあっているために昼間でも暗く、明りを避けるように奇怪な植物たちが密集している。さて、どうしたものか。このまま森から出られないとなると、命すら危ういとわかっていながら男は不安になるわけでもなく、かといって諦めているわなけでもなく。
ただ飄々と森を歩く。夕刻までには戻ると子供たちに言ったのだ。暗くなる前に道に出なくては。ぱちり、がさりと音を立てて動物たちを追いやるが、中にはその音に惹かれてやってくる者も。
対峙した巨大な獣にさすがに男に焦りが見えた。さて。如何したものか。のそりと四本足で歩く黒い獣が二本足で立ち上がった時、ぱん、と乾いた音が男と獣の間で鳴った。
獣はぐるると呻いて再び深い森へと姿を消した。威嚇の為に放たれた銃を片手に、一人の男が姿を表した。木々の陰から現れた男の風体は異様だった。一目で高級品だとわかる長衣は草臥れ、元は白だったのだろうが、あちこちに飛び散った汚れで薄黒くなっていた。何より目を引くのは男の顔の大半を隠すように巻かれた包帯。秀麗な顔をしているからこそ、男のその風貌は異様に見えた。
顔の大半を布で隠した男は、迷い人の男に目もくれず、放たれた弾を白い指で摘んだ。
「すまねぇ、助かった」
迷っちまって、と頭を掻く男を一瞥し、弾を掴んだ白い指で、男は木の間を指差した。
「この先に細いが道がある。それを辿れ」
温度の無い声。礼を告げる前に背を向けた男に向かい、迷い人は慌てて声をかけた。
「待ってくれ、あんた、名は?」
礼をしたいと言葉を投げかけるが、男が立ち止まることはなく。必要ないと風に乗った言葉に迷い人は否の言葉を返した。
「俺は一心、この礼は必ず」
いらないと言われると意固地になるのが一心の性格であったのが男にとって幸運であったのか不運であったのか。礼などいらなかったし、言葉だけだと、男は思っていた。体面を気にする人間の、口だけの約束。
それは男にとって守られる筈のない言葉だった。
森に似つかわしくない、鮮やかな色を持った少年に出会うまでは。
(続きは『雪が世界を覆う前に』に収録)
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